拝啓 瀬戸弘幸 殿

平成21年10月10日、徐才喜冤罪事件の取材記録が瀬戸家の石倉から出てきたとの喜ばしい報告を下さってから、早いもので8ヶ月が経過しました。

地裁の判決文全文(特に公印は必須)と、新聞が大きく報じたという、徐才喜さんの逮捕の記事の公表はまだでしょうか?

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2008年11月23日日曜日
ディベートできない「右派」と「左派」

競争に負けることが植民地になることとほぼ同義であったことを考えると、『日本人らしさ』にしがみついていられなかった『開国』以降の世情を無視して現代の価値観で断罪しようとする左派。

日本人が自ら『日本人らしさ』を脇に置いて競争に勝ち残れるメンタリティー獲得を目指したという事実を無視して、現代の日本人が誇りや尊厳を見失い、日本人らしさも見失っているのは全て左派のせいだとする右派。

右派は左派が悪いから日本が悪くなっていると主張し、左派は右派が悪いと言う。相手を論破してその言論を封じ込めることが日本を良くする道だと本気で信じている。そんな人が割合多く居て、とにかく相手の主張は全否定して論破しようとする。そういうところに落胆を感じます。

先日、ディベートは、勝敗以上にその経過で得られる自分にはなかった知見の獲得が出来ること、意見をぶつかり合わせるなかで生まれる新しい知を創出することに価値があるという話をしました。

右派と左派のぶつかり合いを見ていると、相手を論破することが最終目的になってしまっていて、お互いの視点を持ち寄って、これからの日本がどういう方向に進むべきかなどといった議論をすることは到底できないようです。

明治から太平洋戦争敗戦までの近代史を、現代の価値観で断罪するのではなく、(当時はやむを得なかったにせよ)結果的に日本人が自ら放棄した「日本人らしさ」が何であったのか、その中から現代を生きる自分達が取り戻したいものを探すということが出来ないのか・・・ また、当時の世相と違い、存命の人間を神格化して国をまとめるような形態が国際的に受け入れられない事情を考え合わせつつ、現代の世相、価値観にマッチさせつつ国際競争の中で『日本人らしさ』を見失わない方法を模索できないのか・・・

といったことを考えてしまうので、右派vs左派みたい罵り合いはガッカリすることは多々あるものの、そこに乗り込んでいってどちらかに加勢しようという気持ちにはなれません。ディベートの中から、新しい価値観を見出していこうという意思が感じ取れる事が滅多にないのが残念です。

瀬戸さんのブログを見ていると、立ち上げた当時はまともにディベートをしようという意志が瀬戸さんにもあったように思います。『青年に告ぐ』というカテゴリーを遡って見ていくと、2ちゃんねる等で異論と向き合って自論を粘り強く説明しようとする瀬戸さんの姿を垣間見ることが出来ます。本来は、盲目的に瀬戸さんについて行きますという人たちだけでなく、異論をぶつけてくれる人たちとも話し合っていくべきではないでしょうか。その中から自分でも気づかなかった視点を獲得できることも多々ありますので。

私は瀬戸さんの皇国史観や現代に天皇制ナショナリズムを復活させるべきだという意見に決して賛同しませんし、きっと異論をたくさんぶつけますが、当時の瀬戸さんとであれば、現在の瀬戸さんよりは実りがあるディベートが可能だと思います。

今の瀬戸さんは、『語る保守から行動する保守へ』などと言っていますが、私から見ると、異論と向き合うことを放棄して、自論を他者の意見とぶつかり合わせることで深化させる努力を怠り、目先の気に食わないものに片っ端から攻撃を加えることこそ保守活動だというおかしな陶酔で突っ走っています。日本をどういった方向に向かわせたいのか、もっといろいろな人と議論していくべきではないんでしょうか? 何の哲学も美意識もなく、気に食わないものを叩くことを『保守』と表現しても、他の『保守派』を自認する人たちにそっぽを向かれている現状にもう少し目を向けた方が瀬戸さんのためになると思います。



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1 コメント:

匿名 さんのコメント...

語れない、語る能力のないことを誰よりも自覚しているのが瀬戸氏と思います。
街宣右翼の弁士なら思い付きをポンポン並べるだけで良かったのでしょうが、記録が残ってしまうネットでは自ら紡いだ矛盾で身動きが取れなくなっていく。過去の自分のページを禁止URLにしている異常さが良い見本です。ネット住民はこういう卑怯な振る舞いに敏感です。次々と支持者が去っていくのも道理でしょう。

2008年11月24日 9:53  

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