拝啓 瀬戸弘幸 殿

平成21年10月10日、徐才喜冤罪事件の取材記録が瀬戸家の石倉から出てきたとの喜ばしい報告を下さってから、早いもので8ヶ月が経過しました。

地裁の判決文全文(特に公印は必須)と、新聞が大きく報じたという、徐才喜さんの逮捕の記事の公表はまだでしょうか?

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2009年11月17日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その24)

統一協会の御用聞きブロガーの瀬戸弘幸さん、ジャーナリストの執筆したものは、読者から評価される運命にあり、結果的に、執筆者の意向に関係なく、対立する複数勢力のうちの特定の側を支持する傾向にあると評価されることも珍しくないという事で宜しいんですね?

今後、瀬戸弘幸さんが他のブロガーさんを「○○の犬」と呼称し続けるなら、瀬戸弘幸さんを「チョンドファンの犬」とか「文鮮明の犬」と親しみを込めて呼ばせて戴いてもよろしいですね。

そもそも、ご自分がやられて嫌な事を他人にしてるわけではありませんよね? ジャーナリストを自称されている以上、正当な言論たるものと自負されてやっておられるのでしょうから、相手が同じことをした場合も、それが正当な言論だと認めなければなりませんよ。

とりあえず、福島市長選挙も無事に終わったことですし、私も少し具体的なお話などさせて戴こうと思います。私は瀬戸弘幸さんが脳梗塞だと言うなら退院まで待ちますし、ご親族だと私が考えている方が選挙なら、終わるまで踏み込んだ発言は控えますよ。卑怯なやり方は好きではないので。

会津藩の什の教えに『卑怯な振舞(ふるまい)をしてはなりませぬ』とあります。他にも『嘘言(うそ)をいう事はなりませぬ』や『弱い者をいぢめてはなりませぬ』なども瀬戸弘幸さんには是非とも守って戴きたい教えです。

では、本題に入りましょうか。



瀬戸弘幸さんが、ご自身のルーツについて語っているエントリーです。リンゴ栽培発祥の地は、以前も述べましたが瀬上です。瀬戸弘幸さんが昭和54年頃配布していた怪文書、「月刊ルポルタージュ」に記載されていたご住所は、調べてみたところ、瀬上小学校の西側でした。

1980年の住宅地図を見てみました。瀬戸という名字はいくらでも居ると仰っていたとおり、確かにこの辺りには瀬戸姓の方は多いですね。そして妙なことに瀬戸姓の方が多いこの土地を突っ切るように東北新幹線が・・・

東北新幹線の敷設ルートの決定には不透明なところがあったと何かで読んだ気がしたんですが、記憶違いだったでしょうか・・・ 用地買収や、騒音に対する補償などで、相当なお金が動いてるはずなんですよね。これは後で調べてみる価値がありそうです。

少し話がわき道に逸れますが、敷設ルートについて強く意見が言えそうな方々同士が、結構仲良しですよね。瀬戸孝一県議は、建設族議員の天野光春さんが政治家を志す前から親交があったと自伝に書かれています。

このご住所ですが、Google Mapだけでは良く分からなかったので、国土地理院の地図も併せて確認したところ、周辺は住宅の中に果樹の地図記号が沢山書かれていました。

瀬戸弘幸さんが、御実家の周辺についてご説明なさっているのと同じような風景が広がっているようです。

江戸時代から続いている農家で、本家と分家に別れて、分家が養蚕農家ですか。偶然、そういう来歴の瀬戸家を私は知っていますので、紹介します。 

瀬戸孝一著 ごんけやん「半百の歩み」より抜粋
 私は、大正八年六月二十五日に、父瀬戸栄五郎、母ツナの長男として信夫郡瀬上町字本町三十四番地に生まれた。勿論、これは戸籍上のことで、当時の風習として最初の子のお産は母方の実家ですることになっていたから、私も実際は信夫郡清水村大字御山字壁谷沢、白坂織之助宅で呱々の声をあげたのである。
 私の家は、過去帳でみると瀬戸要吉(嘉永四年四月三日死去)を祖として、瀬戸良助(明治三十一年旧十二月十五日死去、七十七歳)→瀬戸榮之助(大正十二年一月二十六日死去、七十四歳)→瀬戸幸七(昭和六年四月十七日死去、七十三歳)→瀬戸榮五郎(昭和五十二年一月二十二日死去、八十三歳)そして私と続くのであるが、長寿の家系のようであった。
 私の知っているのは曽祖父、栄之助からで、私が満四歳の時に死去しているが、祖父母に子供が無かったため、曽孫として生まれた私は、跡取り息子として一番だいじに可愛がって育てられた。
 納戸の炬燵でよく「だっこ」されたことや、帳場にあった和紙で綴った大福帳に墨で落書きをしてよく叱られたこと、「煙管」を持って、うしろから曽祖父の頭をたたいては逃げ廻ったことが思い出として残っている。

 曽祖父栄之助には二人の娘があったが、男の子がなかったので、姉「てる」には下飯坂の片平家(現戸主幸衛)から祖父 幸七を、妹「ぎん」には保坂の須賀家より、茂三郎を婿として迎え入籍した。
 姉の「てる」(祖母)には夫幸七とのあいだに子供が無く、妹「ぎん」と茂三郎には七男四女の子供があった。
 
 曽祖父栄之助は、姉より妹の方を可愛がったとかで、妹夫婦を新宅に出すときは財産を半々にして分家さしたと聞いている。
 分家「ぎん」の長男、栄四郎は蚕物商として家を継ぎ、次男の栄五郎は請われて、本家幸七の養子として入籍した。これが私の父栄五郎であった。

瀬戸弘幸さんが仰るには、赤の他人だそうですので、登場人物の名前を仮名にする、伏字にする等の作業は一切していません。赤の他人の名前を、不必要にいじり回すのは不自然ですから。

自伝に進んで書かれたものですから、瀬戸孝一さんは広く世間の人に見られても問題ないものとして書かれていると思います。

それにしても、偶然の一致でしょうか・・・ 瀬戸弘幸さんから数えて5代目。一世代上の瀬戸孝一さんだと曽祖父栄之助さんの代で本家と分家が別れているからピッタリ同じ代ですね。

この本の血縁関係図によると、分家の栄四郎さんの跡を継いだのが洪亮さん。瀬戸孝一と瀬上小学校で同級生のいとこ同士でした。

瀬戸弘幸さんのご尊父も『日本よ何処へ』で折々触れられている年齢を逆算してみると、大正八年生まれの瀬戸孝一さんと同学年らしい事が分かります。

瀬上で、りんご栽培の普及活動の先頭に立っていたのが瀬戸孝一さんが理事を勤めていた、「瀬上町りんご技術研究協会」です。昭和二十二年発足。瀬戸弘幸さんは昭和二十七年生まれ。

瀬戸弘幸さんのご尊父は、リンゴ栽培技術を瀬戸孝一さん達と一緒に確立して行ったのではないんでしょうか?


養蚕農家についてGoogle検索すると、Wikipediaの農産業の項目がトップに出てきます。そこを見ると、瀬上地区などを含む信夫郡は日本屈指の養種産地だった事が分かります。

明治時代の富国強兵を支えた、日本の主力輸出品は生糸でした。外国に売って現金収入が得られたので、それで武器を買い、軍備を強化していたんですから、養蚕業に携わっていた瀬戸家には相当な現金収入があったはずです。

明治にはいると、養蚕景気をあてこんで信達地方には100以上の銀行が乱立し、日本銀行福島支店も設立された(福島支店は東北地方では初の日本銀行出先機関である)という位ですから、瀬戸弘幸さんの実家に石倉があるのは不思議ではないです。

江戸時代からルーツを辿れる時点で立派な家系であることが示唆されていますし、養蚕農家であり蚕物商であったのでしょう。それなりに裕福だったんじゃないでしょうか? 小作だったと言う説明は、虚言にしか見えないのですが。

私は、決して名字だけで瀬戸弘幸さんと瀬戸孝一さんを親類だと決めつけているわけではないのですが。出てくる資料や、瀬戸弘幸さんのご説明等から、ますます親類である可能性が高いと感じるようになっています。

瀬戸孝一著 ごんけやん「半百の歩み」より抜粋
 瀬上宿は、福島と桑折の中間にある宿場町であった。宿駅の取締りは本陣の検断が行ったが、代官の監督下におかれた。瀬上には、木下領の陣屋があったが、小藩の飛び領であり、奉行塩見様が民政に殊に意を用いられた方で、その取締りも緩やかで、ある種の庇護を宿場に与えていた。旅籠屋・茶屋・花街の飯盛女は徴税の対象とされていたから特に藩の財政上そうした処置をとったのかも知れない。城下町の福島宿や、天領の桑折宿は取締が厳しかったから、瀬上宿は利用され易い宿場であった。
 飯盛女は、遊女兼女中のようなもので、大半の者は売笑を行っていた。飯盛女は年季奉公で、前借金の額と年齢によって奉年限が契約されてつとめた。
 記録によると、明治五年十月二日に人身売買禁止「芸娼妓解放令」が出されている。福島町では一三九人の飯盛女が解放されたとあるが、現実にはザル法であった。女たちの出身地は新潟県(浦原郡)、宮城県が多く、年齢も七歳(子守)から二十五歳まであり、十六歳から二十二歳までが多かった。これは、生活困窮からくる人身売買、年季奉公のためである。
 飯盛女の出身職業別では、百姓の外士族の子女の数も多くみられ、武士階級の困窮も推測される。
 年季奉公の制度は法的には禁止されたが、飯盛女ばかりでなく、普通の家庭にも年季奉公の師弟は男、女を問わずおり、戦前まで普通にみられた制度であった。私の家でも昭和の初め十二歳から二十一歳までの男、女四名が子守、女中、作男として年季奉公している。私を子守してくれた人は年季があけると、遊女となって瀬上遊郭で働いていた。
 前述の「芸娼妓解放令」の出たあと、旅籠・茶屋・妓楼に飯盛女・娼妓をおく場合、貸座敷業の許可が必要となり、鑑札を交付するようになった。(営業許可証)
 そして無鑑札営業を取締るため、同業者から監督世話人が選ばれ、県を通じ警部出張所(警察)から辞令が交付された。私の曽祖父名の辞令書を、父が死亡した時書類を整理して見たことがあった。
 瀬上宿には明治二十六年の信夫郡統計書によると、八十四軒の営業許可証(貸座敷)を得た家があって娼妓・飯盛女の数は五百二十七名とあるから相当の数であった。

(中略)

明治三十五年(一九〇二年)奥州街道にあった花街は、風俗を乱すという理由から移転が命ぜられ、今まで宿場に散在しておった妓楼を、一ヶ所に集めて、営業するよう政令が発布され、瀬上花街は瀬上の東裡と言われた薬師前に移転することになった。

(中略)

私の家では、明治三十五年の新町移転前は貸屋敷業の鑑札を得て営業し、農地も多く持ち(七町歩)百姓と兼務であったが移転のとき鑑札を返納して廃業した。

(※Tomatotic-jellyさんが誤変換を見つけて下さったので直しておきました。今後とも宜しくお願いします。)

瀬戸家が遊郭の経営に携わった証拠は目にしてないと以前のエントリーでお話しましたが、ここだけはウソをついていました。

思いっきり、経営してますと自伝に書いていらっしゃるのを見ていたのですが、コレを紹介して良いものかどうか少し躊躇していたので・・・

以前のエントリーで紹介した石倉造りの建物などが並んでいる瀬上町遊郭は、明治三十五年に移転したもので、瀬戸家は移転時に遊郭からは手を引いたそうです。

年季奉公で子守をしてくれていた人が、年季明けで遊郭に・・・ 何だか現代人の私には受け止めにくいお話ですが、当時は割とこういう話はあったんでしょうね。

七町歩の百姓というのはピンと来ないでしょうから補足しておくと、東京ドームの1.5倍ほどの作付面積を所有する百姓だったということです。

富国強兵のための外貨獲得源であった養蚕業のメッカの信達地方は、極めて短期間で戊辰戦争後の復興がなされました。会津藩は1年近く藩士の亡骸を埋葬どころか移動すら許されず野ざらし。片や、コチラは2年くらいで復興し、更に銀行はどんどん建つ。

同じ福島県とは言っても、廃藩置県で1つになっただけで、会津とは全く状況が違いますね。

東北は全体的には明治政府に逆らった土地として冷遇されましたから、産業などのテコ入れがあまりされていませんでした。そのため貧困に喘ぐ農民や士族の子弟が身売り同然の年季奉公に出される。

雇用者側から見れば、安い労働力が安定供給されます。東北は、農業以外の自活手段が乏しいために、不利な条件の小作農を受け入れる者が多かったので、地主に有利だったという事も、以前紹介しました。

冷遇され続ける東北にあって、ごく限られた土地だけが富国強兵の国是国策に乗って重点的に厚遇を与えられていれば、安い労働力を獲得しながら、高く買ってもらえる生産物を作れるんですね。

更に、安く獲得した労働者が年季明けには遊郭へ。それも管理して、しっかり利益を上げる。そういう事が可能な時代だったんですね。

で、そんな素晴らしい追い風に乗っていたのが当時の瀬戸家ではないのですか? 不遇に晒された会津藩を引き合いに出して、自分は東北人の苦しみを理解する代表者だというようなエントリーを立てる瀬戸弘幸さんの神経が私には理解出来ません。

他方、瀬戸孝一さんは、世間の批評に晒されるリスクは十分予想したでしょうに、瀬戸家が歩んできた歴史の一端を正直に書き綴っておられます。

自分たちの過去と向き合うことは、なかなか大変な作業です。これには一定の評価をしなければならないと思います。

瀬戸弘幸さんも、そろそろ貯めに貯めた宿題と向き合った方が良い頃合いではないでしょうか?



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2009年11月11日水曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その23)


これはまた随分と馬鹿げたエントリーを・・・


瀬戸弘幸さんは、北朝鮮籍、韓国籍、いずれの方も朝鮮半島に帰るべき人だと今になって主張していますが、数年前までは無条件帰化を提唱していました。

それをshinok30さんが指摘したところ、ご覧のような虚偽説明をしながら都合の悪い指摘を悉く削除。残念ですが、しっかり魚拓が取られていますよ。



kwoutから魚拓を辿って戴くか、ウチの前回のエントリーのコメント欄にshinok30さんがレポートを書き込んでくれているので、そちらを参照して下さると、瀬戸弘幸さんの説明がデタラメであることがすぐ分かります。

私からも色々言っておきたい事があるので、shinok30さんと重複する部分もあるかと思いますが・・・



共産中国問題、靖国問題、国内左翼勢力に対する考え、多くの問題で、瀬戸弘幸さんの考えと、読者(いわゆるネトウヨや嫌韓厨が多いのでしょう)との考えはほぼ一致しているが、韓国については違うと自ら述べていますね。

ここでもセマウル運動について述べています。宿題遺棄シリーズで再三指摘してきた通り、瀬戸弘幸さんはセマウル運動をボランティア活動だと虚偽の説明をしていますが、実際は統一協会や勝共連合と関係の深い活動です。

『この日本に生まれ、同時代を一緒に生き、日本に骨を埋めようと考える者を、なぜ日本社会が受け入れないのか?私にはその方が逆に不思議でならない』というのが、瀬戸弘幸さんの考えです。


虚偽の記載が非常に多く、徐才喜冤罪事件というフカシ記事を持ち出して、更に韓国人擁護に全力投球する瀬戸弘幸さん・・・

国会図書館にも、「福島民友」と「福島民報」が保管されていました。福島県立図書館で閲覧するのに使った時間の数倍かけて丹念に読み直しましたが、やはり徐才喜さんが逮捕されたという記事はどこにもありません。

新聞記事になっていないのに、各紙が大きく報じたとウソを書いたのは何故でしょうか?


左傾化? ウソも大概にしましょう。 自国民を抑圧し、時には虐殺して来た軍事独裁政権が瀬戸弘幸さんが支持する反共政権であり、その復権を望んでいるんじゃないですか?

そもそも反日教育をして来たのも、度重なる謝罪と賠償の請求を繰り返して来たのも歴代の軍事独裁政権です。反共の看板を掲げて光州事件などで自国民を大量虐殺するような政権を、セマウル運動参加などで支援して来たのが瀬戸弘幸さん。

セマウル運動が本当に単なるボランティア活動で、瀬戸弘幸さんが真面目に韓国人のためを思って参加していたのなら、全斗煥(チョンドファン)ファミリーがセマウル運動資金を横領して、不正蓄財していたと知った時点で激しく非難しているはずですが、そんな素振りは全くない。

あくまで、全斗煥を追い落として民主化し、全斗煥政権以前の不正を追及している政権を左傾化していると非難しています。


こんなご立派な発言をしていながら、実際には韓国人のためを思って支援などした事はなさそうです。都合よく利用できそうだから利用していただけ。

軍事独裁政権がコケて、韓国人が勝共の思うようにならなくなり、日本国内では嫌韓厨との議論で厳しい立場に・・・ で、こういう汚い過去をきちんと説明せず、韓国人が左傾化して愛想が尽きたので嫌韓になりますって虚偽説明かましたんですよね?

瀬戸弘幸さんの主張が矛盾だらけという指摘はこの辺にしておきますか。この頃『日本よ何処へ』のコメント欄に参加している人達は割と熱い人が多かったようです。

少なくとも、最近のコメント欄参加者の方々のように気持ち悪い人ばかりではありません。東村山の洋品店襲撃の一件辺りから、すっかり瀬戸弘幸さんを見限ってしまったmiracleさんも、このエントリーにトラックバックしてますね。

このエントリーでは、特に声優さんの発言が目立っているのですが、私が特に気になったのは「金 国鎮」さんの発言です。


瀬戸弘幸さんは、この発言の意図するところが理解出来たでしょうか?


瀬戸弘幸さんが、もう少し懇切丁寧に対応していれば、色々な事が聞けたんじゃないですかね。他所の掲示板でこんな発言をされています。

これを見て分かることは、北朝鮮系の在日の方々は、肉親に会えない事で本国に人質を取られているような状態にされていて、それが拉致などの協力を強いられる要因になっていたという事です。

韓国側は、KCIAを通じて彼らをパスポートなし帰国させる事で、こうした状況から解放していた。

金国鎮さんの目線では、人道的という事になるんでしょうが、家族を「人質」として押さえて「在日」を工作員として使ったり送金させたりしたい北朝鮮と、それを阻止したい韓国が、日本を舞台に熾烈な工作を展開してたという事なんでしょう。

民団がセマウム運動や墓参を繰り返すうちに、何故か総連と人口逆転したという指摘もさせて戴きましたが、日本における韓国系vs北朝鮮系の在日社会の戦いも、瀬戸弘幸さん達の考える反共の戦いの一環になっていた時期があったのではないでしょうか?


西村修平さん在籍時代の國民新聞でも、こんな指摘がありますね。

北朝鮮の帰国事情は、人質を差し出させる事業です。それを熱心に勧めた朝日新聞や進捗的文化人の面々を厳しく批判するというなら結構な事ですが、ろくな考えなしに帰国させろですか。

また、帰国事業が生んだ悲劇として、日本人妻が未だに一時帰国も果たせない問題など、瀬戸弘幸さんはどうお考えなのでしょうか? 北朝鮮に拉致されて帰国できない人達と事情はさほど変わらないのですが・・・

そうした問題について真剣にお考えなら、こんな不真面目な発言は出来ないはずです。



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2009年11月6日金曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その22)


有門大輔さん、国家ぐるみで拉致という犯罪行為を働く北朝鮮に食糧支援など言語道断と仰りたいんですね?

瀬戸弘幸さんと、まきやすともさんが、国際宗教連盟に加入するきっかけになった五味武さん(故人)が代表を務めるNGO、グローバルレインボーシップが、北朝鮮による拉致発覚後にデヴィ夫人と共に120トンのコメ支援を行っていた件を前回ご紹介しました。

その後も、この団体について調べ物を少ししていたのですが、追記では書ききれなくなって来ましたので、やむを得ず1回分のエントリーを起こす事にしました。


2007年9月12日~15日に、グローバルレインボーシップと、全国勝手連合会という団体が合同で、北朝鮮を訪問しています。

リンクを見て戴きたいのですが、チュチェ思想の塔の前で記念写真を撮り、平和のメッセージを書き記し、よど号事件の小西隆裕さん、赤木志郎さんらと談話して肩を組み、人民軍兵士や黄虎男・対外文化連絡協会・局長と硬い握手。



素晴らしい歓待を受けたようですね。まさにVIP待遇。グローバルレインボーシップって、本当に北朝鮮では厚遇を受けてるんですね。

ちなみに、全国勝手連合会会長の光永勇さんも、国際宗教連盟の会員です。瀬戸弘幸さん、まきやすともさんと仲良く名前を並べていらっしゃいます。



もう一度、おさらいしておきましょう。

まきやすともさんは、ブログ上で国際宗教連盟の解説をするに辺り、(グローバルレインボーシップ代表の)五味武さんを通じて知己になった中井天山代表の要請を応諾して、加入したと説明していますね。

つまり、元々五味武さんと知り合いだと告白しています。

瀬戸弘幸さんの師匠である岩崎定夢さんは、優健美館の記事で五味武さんと古いつきあいであることを紹介しています。

そして、国際宗教連盟内での瀬戸弘幸さん、まきやすともさんの肩書きは、五味武さんと同じですね。この方の縁故で加入したんですから当然の成り行きでしょう。

このグローバルレインボーシップというNGOは、拉致問題発覚後も積極的に北朝鮮に食糧支援を実施しています。デヴィ夫人と共同でコメを送ったり、勝手連合会と訪朝したり、大活躍です。

素晴らしい団体と仲がよろしいんですね、有門大輔さん。随分お話が違うんじゃないですか?

知らなかったでは済みません。グローバルレインボーシップが北朝鮮に食糧支援を実施したり、新左翼の方を訪朝させる手引きを行っている事は、西村修平さんが在籍していた頃の國民新聞が記事にしています。

在日右翼と言われている某団体は、グローバルレインボーシップに名義貸ししていた大物政治家に対して抗議文などを送ったりもしているようです。(※当時は、こんな団体だとは知らなかったでしょうから、政治家さん達も災難だったでしょう。)

事情を知らずに名義貸しをしていた政治家さん達とは違って、瀬戸弘幸さんや、まきやすともさんは、『拉致が発覚した後も北朝鮮に食糧支援を続けている団体』だと知りながら名前を貸して居るんですよね?

これは、拉致問題に真剣に取り組んで来た人たちに対する重大な裏切りじゃないんでしょうか?

前回のエントリーで、知らんふりを決め込んでまともに説明をする姿勢が皆無だった事なども考え併せると、相当に後ろ暗いものがあると判断せざるを得ません。


御三方は、国際宗教連盟のヒーローだそうですね。チュチェ思想の塔の訪問はもうお済みですか?

前回のエントリーで、まきやすともさんの説明はまずいのではないかと問いかけておいたのに知らん振りですね。つまり、五味武さんとの繋がりを認めたと解釈されても構わないと仰っているのと同義ですよ。

私はいきなり決めつけたりしないで、誤解があるようなら訂正しておいた方が良いのではないかとお聞きしたのに、そのままで良いとは・・・



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