拝啓 瀬戸弘幸 殿

平成21年10月10日、徐才喜冤罪事件の取材記録が瀬戸家の石倉から出てきたとの喜ばしい報告を下さってから、早いもので8ヶ月が経過しました。

地裁の判決文全文(特に公印は必須)と、新聞が大きく報じたという、徐才喜さんの逮捕の記事の公表はまだでしょうか?

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2009年9月30日水曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その12)

瀬戸弘幸さん達、今度はリチャード・コシミズさんと揉めているようですね。

セマウル問題を取り上げ始めた時に、コシミズさんのところらしき掲示板にウチの記事の要約が貼られてるのを見て、コシミズさんたちの路線とは違うんだよなぁと微妙な気持ちになったのも確かなので、肩入れする気は更々ないですが、みなし公人である瀬戸弘幸さんには少し言っておきたい事があるので触れておきます。

地裁の判事が創価学会から金品をもらって創価有利な裁判進行をしたに違いないからと、訴追請求までしたのは他でもない瀬戸弘幸さん達だったはずです。

『証拠もなく、カルト宗教団体からお金をもらっていると決めつけてクビにしろと具体的処分まで求める』という暴挙に出た上に、虚偽告訴の類にならないかと私が聞いたら『表現の自由だ』と突っぱねたのも、瀬戸弘幸さんです。

「犯歴報道被害者の会」という立派なお名前の会の主催者である瀬戸弘幸さんの倫理観はその程度のものですから、他の方が西村修平さんの活動資金が不透明だから『統一教会からお金をもらっているんじゃないの?』と口先で言ったくらいで目くじら立てて『堪忍袋の緒が切れた』と言う資格などないでしょう。

西村修平さんも瀬戸弘幸さんも、政治活動資金が不透明すぎるからあらぬ誤解をいつまでも持たれるのではないですか? 怪しげなカルト宗教からお金をもらわなくても健全に活動できる事を示すためにも、収支報告をきちんとなさっては如何でしょうか。

自分たちは証拠もなく他人様がカルト宗教からワイロをもらっていると言っても『言論の自由だ』と言えば許されると主張したんですから、コシミズさんに『統一協会から金をもらってる証拠を出せ』としか言えないなら世間にバカにされます。

自分たちの資金の収支状況を進んで全公開して、『アヤシイ宗教などから金をもらわなくても困ってないぞ!』とカッコイイ啖呵を切る位でないとお話になりませんよ。

何しろ、瀬戸弘幸さんは「犯罪報道被害者の会」の主催者ですから、世間一般の人々よりは高い倫理観を持ち合わせていることが期待されます。世間に対して恥ずかしくない振る舞いをなさるよう期待しております。

脱線し過ぎましたね。ボチボチと福島県立図書館で拾ってきた情報を交えたお話に入って行きたいと思います。

まず、福島行きのきっかけになった「徐才喜冤罪事件」の元記事。図書館に到着してすぐに閲覧させて戴きました。

「政経東北」という月刊誌の昭和53年6~9月号に掲載されたもので、すぐ見つけることができました。瀬戸弘幸さんは28歳の頃と自己申告していたのですが、25歳の頃の執筆ですね。

瀬戸弘幸さんは、ヤクザ者との刃傷沙汰を起こして9ヶ月間拘留されている間に、徐才喜さんが(殺人罪について)無罪を勝ち取って出所した事、那須さんの冤罪事件などのニュースを聞いて心強く思ったとブログに書いています。

この記事に取り組んだのが昭和53年の正月頃からのようですから、逮捕拘留されたのは、昭和52年の3月以前という推測が成り立ちます。ここまでは良いですね。

この徐才喜さんという方が疑われた原因であるという、福島市太田町婦人殺害事件というのが発生したのが昭和51年10月20日です。瀬戸弘幸さんが刃傷沙汰を起こした時期とかなり近いですね。恐らく半年の開きはありません。

図書館で複写を取らせて戴くことが出来ましたので、「徐才喜冤罪事件」の記事を公開します。

徐才喜冤罪事件-1回目
徐才喜冤罪事件-2回目
徐才喜冤罪事件-最終回

迫真のルポですね。流石はジャーナリストデビュー作。よく調べて書いています。 ・・・と申し上げたいところですが、実はそうではありません。

この記事にざっと目を通し終えた私は、すかさず記事の裏を取り始めました。まず、「福島市太田町婦人殺人事件」の概要を知るために、地元紙の記事を読むことにしました。

福島県の有名な新聞は、「福島民報」と「福島民友」があります。昭和52年の新聞を図書館にリクエストすると、『福島民報はマイクロフィルムしかありませんが、福島民友なら紙のままで保管してありますよ。』との事。

時間がないので、「福島民友」を先に見せてもらいました。事件発生の翌日には大きく1面を飾り、遠藤文子さんについても詳しく書かれていました。それから10日間くらい、連続して記事が続いています。アタリが取れたので、「福島民報」のマイクロフィルムもざざっと目を通しました。

結論を言いますと、瀬戸弘幸さんが遠藤文子さんについて自分がルポしてきたみたいに書いていることは、ほとんど地方紙に書いてあった内容の引き写しです。新聞の引用だと書かなかっただけで、目新しいことなど何も書いていません。

新聞では遠藤文子さんを良い人だと書いているのを、勝手に悪人にしようと小細工している以外の部分は、ほぼ丸写しと言って差し支えありません。

次に、徐才喜さんが詐欺で逮捕された時に新聞社がこぞって書きたてたと主張している点が気になったので、逮捕されたとされる時期、起訴されたとされる時期など重点的に、しらみつぶしに新聞記事を読みました。1日も飛ばさずに紙面を読みましたが、それらしい人物の逮捕を報じる記事はありませんでした。

「徐才喜冤罪事件」のライターは、遠藤文子さんについて自分が調べてきたように書いた部分が新聞の引き写しであることを書かない。遠藤文子さんに金貸しの疑惑がある等のネガティブな記述だけ信憑性を上げようと必死に新聞紙名と日付を書く。徐才喜さんが逮捕された際、新聞がこぞって書きたてたと言いながら、どの新聞がいつどのように書いたかという点は全く引用しない。

こういう事をしていれば、ジャーナリストとしての信用はいつまでたっても醸成されないでしょうね。こういう姿勢で好き放題書くライターが放置されるなら、犯罪報道被害もバンバン出るでしょう。出版社は、持ち込まれた記事の裏くらいは取るべきだと思います。

私は限られた時間内で記事を読んでいますが、複数紙を読んでも全く詐欺で逮捕されて遠藤文子さん殺しを疑われた人が見当たらないという事は、徐才喜さんの存在自体がフカシであるという疑念はきわめて濃厚です。

通名報道云々と言い出す人も居られるでしょうが、「徐才喜冤罪事件」で日本人名とされている姓も見ましたし、姓名や人種にも拘らず、太田町界隈で詐欺容疑で逮捕された人ということで記事を一生懸命読んでもそれらしいものが見つけられませんでした。

更に、昭和52~54年版の福島市住宅地図を閲覧させてもらうことにしました。連載2回目にある地図と見比べてみると、確かに電気病院(※紛らわしい名前ですが、家電系リサイクルショップだと思います)は存在しますし、遠藤文子さんの家も新聞記事の住所をそのまま地図上で探すとこの位置です。しかし、玉川食堂は確認できません。地図上でこの辺りは空白です。

徐才喜さんを詐欺で訴えた人を仮名にしているのも巧妙ですね。民事なら、原告と被告の実名が分かっていれば、事件番号等がすぐに判明しますが仮名では確認が取れません。

いくら丹念に探しても徐才喜さんが実在したと思える情報に全く辿かない。渾身のルポの裏を取っているはずなのに不思議なことです。

これでは、私はフカシ記事を読むためだけに福島までノコノコ出てきたことになってしまいそうです。

それ以上に、実在しそうもない在日韓国人の徐才喜さんが冤罪で警察に吊し上げられていると瀬戸弘幸さんが匿名ルポまで書いた意図が実に不可解です。

新聞記事を始め色々な資料と「徐才喜冤罪事件」を見比べていた私は、やっぱりこんなもんだったか・・・ と予想通りな展開になった事については、それほど落胆しませんでした。

福島に来る前は、ある程度調べて『かなり濃厚な線でガセッっぽかったです』という結論を報告できる程度の目処がついたところで次の調べ物に移る予定でした。

ところが、そう捨てたものでもありませんでした。事前に予習をしておいたのが良かったのでしょう。「徐才喜冤罪事件」の裏を取っている最中に、新聞記事の中から瀬戸弘幸さんの過去の素性洗いの方で調べるつもりだった全く別件と本件が直接リンクしている記事に気づいたのでした。

瀬戸弘幸さんは、『冤罪がどのようにして生み出されるのか』をテーマにしたがっていましたが、私はこの事件を通じて『でっち上げ記事がどのようにして生み出されるのか』という勉強をさせて戴いたように思います。

次回に続く。



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2009年9月29日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その11)

瀬戸弘幸さんが、「犯歴報道被害者の会」という団体を立ち上げたようです。まだ活動内容がよく見えませんが出来るだけ立派な会にして戴きたいものです。

社会活動家として、公人に近い影響力の行使をしようとするなら、瀬戸弘幸さんを「みなし公人」扱いして批判しても何ら問題ないという事になります。特に「犯罪報道」によって生じる被害について、世に問う活動をなさるようです。

そういう事ならば、その分野における倫理観を正しく持っておられるかという点について、世間一般の人たちよりも厳しい基準で評価されるのは当然の事です。そうした批評に耐えられないなら最初からそうした看板を掲げたりすることは間違ってもないでしょう。

瀬戸弘幸さんは、ご自身がなさってきた事に絶対の自信があるから、「犯罪報道被害者の会」を立ち上げて、その看板を背負ったのですよね?

私がこれから批判しようとしていた事柄の根底には、正に瀬戸弘幸さんの報道姿勢に対する疑問があります。

それに気づいたのかどかは分かりかねますが、このような会まで立ち上げて、この分野で堂々と看板を掲げて「みなし公人」として扱えと宣言なさるとは、実にご立派な姿勢だと感服しました。

もちろん、瀬戸弘幸さんのご希望に沿って公人並みに厳格な目線で評価した上で批評させて戴きます。素晴らしい看板を掲げていらっしゃるんですから。

では本題に移ります。前回の続き。

昭和48年末の石油ショックで、資金繰りが苦しくなった東亜相互企業が、白河高原開発の一環でゴルフ場の一部を分譲住宅地に計画変更した事と、その計画変更の受理については生殺与奪の権利を福島県の「生活環境部」が握るような事態になって行ったことまでお話しました。

昭和49年末、更に追い討ちをかけるように国土利用計画法が制定されます。

今までの「福島県自然環境保全条例」が届出制だったのに対し、「国土利用計画法」は許可制で、更に足枷の度合いが強まります。ただし、内容は県条例に近いため、県条例のうちに「届出」を通しておけば、「許可」も同一手続きで通りやすくなるということから、駆け込み申請が殺到しました。

ちなみに、この「国土利用計画法」は、福島1区選出の衆議院議員、天野光晴氏の肝入りで作られた法律です。この方の名前は、これからもちょくちょく出てきます。

そろそろ生臭い話になってきます。

「東亜相互企業」営業の黒沢利勝氏は、「生活環境部」部長の赤井重雄氏と、木村守江県知事が4選目の懸かった選挙に出馬に関する話をしている時に、こんな事を言われたそうです。

『木村知事も今度は資金がなくて困っている。県議一人に三十万ずつ出しても一千万ずつかかる。』

黒沢氏は、赤井氏が現金を要求していると思い、日頃から面倒をみてもらっていると感じていたことからお礼をしようと考えました。木村氏と赤井氏が白河高原の開発に理解を示してくれていれば、これほど心強いことはありません。

上司とかけあって1千万円用意した赤井氏(※誤記のため訂正します)黒田氏ですが、上司の判断ミスで県庁に直接届けに行って一度は受け取りを拒否されてしまいます。こんな大金を人目があるところに持ち込んでは当然です。

上司を退場させて場を改めて設定し、木村氏と赤井氏に500万円ずつ分けて渡すことにしました。

赤井氏の分は、実際には300万円がラジウム卵という土産物の中に忍び込ます形で受け渡されましたが、これは、赤井氏がステレオ、株券、ゴルフ会員権、飲食費などに使ううちにあぶく銭として消えました。

木村守江氏の支持母体は「豊かなふるさとづくり県民会議」といいいます。

この副会長を務めていたのが、「福島県農協五連会長」の斎藤初四郎氏です。福島県の農協は、単協と呼ばれる158の組合が目的別に5つの連合組織を作る「五連制」を敷いていて、そのトップがこの人です。

木村守江氏は元々は医師で、旧軍では軍医、そして五連会長の斉藤初四郎氏は軍曹で、同じ戦場に居ました。そして、斉藤氏は木村氏の目の前で重症を負い、適切な救命処置と看護のおかげで命をとりとめ、以後命の恩人として、木村氏のためなら命を賭けられると公言するほどの間柄になります。

第077回国会 農林水産委員会 第16号などを見ていただいても良いのですが、『この五連の会長の斎藤初四郎は知事木村守江と地獄へ一緒に行ってもいいと言っている男なのです。どんな選挙をやったか、選挙違反で逮捕されている。この事実をどう見るか。』
といった厳しい追及もなされています。

木村守江氏も斎藤初四郎氏も、「木村王国の崩壊」を読めば必ずしも単なる悪人として書かれてはいないので機会があれば読んでみて欲しいのですが、兎に角、木村守江氏の最後の花道として『4選目の知事選を大勝させてやりたい』という想いが斎藤氏を突き動かします。

「福島県農政刷新連盟」という政治結社があります。農民たちの政治参画意識を集結して政治を変えようという団体で、委員長は五連会長。つまり、斎藤氏です。「盟友」と呼ばれる組織員は20万人。家族などを含めると30万票とも40万票とも言われる、非常に大きな集票能力を持っています。

この知事選は、木村氏の勝利が楽観視されていたのですが、斎藤氏は有終の美として大差で勝たせてやりたいと考えていたので、投票の棄権を少しでも減らすために農協という大票田のひきしめをしようと考えました。

農協幹部職員や県内の158の農協役員その他実弾(=ワイロ)をばら撒いて、役員から選挙は棄権せず投票しに行くように働きかけをさせようと考えました。そうなると、必要な額は1千万円。この裏金の用立ては、自民党福島県連幹事長の大野正一氏に依頼されました。幹事長のところには様々な政治献金等が集まってくるからです。

大野氏は、2つの工務店から500万円ずつ裏金を回してくれました。

1つは、元々農協との取引がある工務店でしたが、もう1つは木村氏との接点はあるものの農協との接点はほとんどありません。実は、これが「東亜相互企業」の黒田利勝氏が木村氏にワイロとして贈った500万円が偽装されたものでした。

こうした事実は、末端から頂点に向かって次々と明るみになって行くんですが、皆が一様に木村守江知事を守ろうと懸命になります。農協五連トップの斎藤初四郎などは、農協全体が組織ぐるみで選挙違反、票の買収といったことをやっていた事、この選挙だけでなかったことなども認めていました。

それを認めてでも、木村守江知事個人の刑事責任は免れさせようとした・・・ すごいことですね。農協トップが農協崩壊につながりかねない選択をしてまで守ろうとするんですから。

また、自民党福島県連幹事長の大野正一氏も矛盾を突かれて追及が福島県内の与野党県議全員にまで及ぶくらいのところまで追い込まれるギリギリのところまで、木村守江氏を守り抜こうとしていました。

あらゆるところに、トップである県知事の刑事責任追及を阻む否認の壁があり、それを突破するための地検の戦いがありました。

かなり端折りましたが、何が起こっていたかの把握だけならこの辺までで十分だと思いますので、興味のある方は本を探して読んでみて下さい。

「木村王国の崩壊」は、有罪になった人たちの事も必ずしも一方的に悪人としてなじるような書き方はしていません。機会があれば図書館などで探して下さい。

もう1冊紹介したい本があると、前回お話していました。

福島市太田町婦人殺人事件の被害者、遠藤文子さんの件で「ふくしま教育データベース」を見ていて、木村守江県知事の他にもう1人気になる人を見つけていました。

教育年報1966年(S41)-134/194pageの中を見ると、「福島県PTA連絡協議会長」という肩書きで瀬戸孝一さんという方がいらっしゃいます。

たまたま苗字が一緒なだけかもしれませんが、福島県PTAで一番エライ人だったみたいです。このお名前でGoogle検索してみると・・・

JA新ふくしま 試行錯誤のリンゴ物語


福島で初めてリンゴを栽培したのは、瀬上町の阿部又兵衛氏で、同氏は明治21年、阿武隈川の向かい側に「倭錦」(やまとにしき)というリンゴを初めて栽培したとされています。実施的に福島県のリンゴの栽培の歴史が幕を開けるのは、同じ瀬上町の阿部勉治氏が、明治40年、山形県から苗木を購入し植栽しました。4年後には5人の賛同者とともに瀬上果樹組合を発足させ大正年間までは自己流の栽培技術で試行錯誤を繰り返していたようです。
終戦後の昭和22年、既にリンゴ栽培の中心になっていた阿部健次郎(瀬上町)を会長、瀬戸孝一氏を事務局長とする瀬上リンゴ技術研究会が発足し、以後はこの組織を中心に広く県内各地にリンゴ栽培が普及しました。
 当時、本県のリンゴは倭錦で始まり、その後は祝(いわい)と旭(あさひ)が栽培の主流でありました。戦後はこれにスターキングが加わり、昭和30年~40年までは、この3品種の全盛期が続きます。現在は「ふじ」が主流となっていますが、その理由はなんといってもおいしく、貯蔵性にたいへん優れていたからです。ふじは、まさにリンゴの代表格であり市内の約70%が「ふじ」で占められています。


リンゴ栽培の草分け的存在の方ですね。更に検索してみると、この方が書いた自伝がネット古書店で見つかりました。著者の紹介を見ると大正8年生まれとの事。(※私が本を購入したので、もうネット上では情報を読めません)

瀬戸弘幸さんのブログを読み返すと、瀬戸弘幸さんのご尊父も丁度同じ年齢のようでした。

更に検索してみると、福島県議会議員に何度も当選なさっている方だということが分かったのですが興味深いことが・・・

県議会ふくしまWeb 県議会議員の紹介 議会、副議長紹介というページを見ていくと、昭和52年3月5日に福島県議会副議長を「辞職」なさっています。

私が瀬戸弘幸さんが刃傷沙汰を起こしたと予想している時期がこの辺りだったので、この情報を見つけた時は、瀬戸孝一さんが、瀬戸弘幸さんのご尊父なのではないか? と思い込んでしまうほど色んな条件がピタっと当てはまっていました。

誤解が先行するとまずいので、順序が前後してしまいますが先に少しお話しておきます。この予想はハズレでした。

瀬戸孝一さんの自伝をネット古書店で発注して手元に届いたのは福島県立図書館から帰って数日経ってからです。また、図書館で拾ったいくつかの情報からも、この事前予想は間違いだったと気づくことになりました。

瀬戸孝一さんは、福島市長・瀬戸孝則氏のご尊父でした。そして、瀬戸孝一さんには同い年の「いとこ」が居ます。恐らく、この人が瀬戸弘幸さんの父親という事になると思います。

そうでなかったとしても、福島市の瀬上(せのうえ)地区あたりからリンゴ栽培は始まっていて、その辺りに居た瀬戸一族の中で育ったという点はほぼ間違いありませんから、瀬戸弘幸さんの家柄はほとんど特定されている事になります。

なお、家柄まで掘り下げるのは下世話に見えるかもしれませんが、次回から指摘していく事項を見れば恐らくはそうも言っていられなくなるでしょう。むしろ、瀬戸弘幸さんがやらかしたことを説明するためには伏せておけないので最小限触れることについてはご容赦戴きたいと思います。

瀬戸弘幸さんは、福島県議の瀬戸孝一氏と親戚だという程度の認識はしておいて下さい。また、瀬戸孝一氏とご子息の瀬戸孝則氏は、先述の、「国土利用計画法」の天野光晴氏の派閥、いわゆる天野派と言われています。

興味のある方はWikipediaなどを見て下さい。

次回に続きます。



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2009年9月27日日曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その10)

前回に引き続き、書籍を中心に当時の福島県政全般の汚職について少し触れてみたいと思います。

『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』という本は、朝日新聞社から出ており、当時の紙面で長期に渡って連載されていたものをまとめなおしたものです。

福島県の天栄村で起こった水道管工事に村長選挙が絡んだ贈収賄事件が発端となり、福島県内のあちらこちらで、芋づる式に汚職が明るみになって行き、思いもかけないところに飛び火しながら逮捕者を出して行きます。

遂には福島県知事選挙で票のとりまとめに使うための裏金1千万円が猛牛(ファンソ)こと町井久之氏の東亜相互企業から引っ張り出されて、大票田の農協に流されていることが明らかになり・・・ といった内容です。

ドキュメンタリーの流れとしては、末端で起こった小さな事件から順々に大きな贈収賄事件の立件を追う形になって行きます。出来れば図書館などで探して皆さんにも読んでいただきたい良書ですが、簡潔に紹介するために、一番大きな部分のみ紹介します。

なお、この本だけでは、町井久之氏サイドの事情について若干情報量が不足気味なので、まずは『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男 「東声会」町井久之の戦後史』という本で少し補っておきます。

昭和36~37年頃、河野一郎氏が農林大臣の時に、福島県西白河郡西郷(にしごう)村の白河高原の国有地を一部払い下げに出しました。農林省から坪百円程度でした。児玉誉士夫氏と河野一郎氏は懇意で、二人で土地を見に行っています。

町井久之氏は下見から帰った児玉誉士夫氏の薦めでこの土地を購入。何人かの方がひとり何万坪かを購入したようです。

この一帯は旧陸軍の軍馬補充部や演習場として、終戦まで使われていました。戦後は、旧満州から引き揚げてきた開拓団の一部七十七戸が再入植して、酪農を主体とする開拓地とされていました。

しかし、那須火山帯の裾野に位置する痩せた土地で、しかも福島県下で最も寒冷な土地のため、耕作に適さず・・・
開拓農民たちは借財を膨らますばかりでした。

昭和39年の暮れに、この開拓農民たちが困窮して町井久之氏の東亜相互企業に泣きつきます。町井社長は開拓農民たちの土地を担保に快くお金を貸します。返済も農民たちが困らないよう無理のないよう配慮する旨指示をしています。

この一帯は掘れば温泉が出ることも東北新幹線のルートになることも分かっていたようです。また、開拓農民たちの酪農は、それ自体が健全な黒字体質になっていませんからいくら温情をかけてお金を貸しても、いずれ返せなくなることは薄々分かっていただろうと思います。

案の定、開拓農民たちは借りていたお金が返せなくなり、土地の買取を町井久之氏に持ちかけるようになります。

こうして、東亜相互企業は、白河高原の二百五十万坪もの広大な土地を買収して、近代農場を中心に、乗馬、ゴルフ場、テニス、射撃などのスポーツ施設と、ホテルや温泉を組み合わせた壮大なリゾート構想を打ち立てました。

この土地買収に必要な資金が160臆円、更に施設の総工費が150臆円、しめて310臆円が必要でした。

ここで町井久之氏の出自が問題になります。在日韓国人である町井氏に日本の銀行は融資したがらず、かといって流石にこんな大金を融資抜きでは用意できません。会社の資本金は5臆円そこそこです・・・

町井久之氏は、韓国のコネクションに頼ります。大統領警護室長、「ピストル・パク」こと朴鐘圭(パクチョンギュ)氏と懇意だったので、そこから朴正煕(パクチョンヒ)大統領に話を通しました。

前述のとおり、戦前には西郷村には軍馬補充部白河支部があり、演習場がありました。そして、朴正煕大統領は、旧日本陸軍の士官学校を卒業し、白河での演習に参加したことがありました。

朴大統領にとってはなじみの深い土地だったことが幸いし、後押ししてもらえることになりました。(後に、朴大統領が隠居後に暮らす土地として町井久之氏に大規模買収と開発をさせたのではないかという批判がされたようです。これが事実なら、まさに「売国」という事になります。)

昭和43年、朴大統領は、韓国外換銀行が東亜相互企業に融資することを許可。この融資によって白河高原の土地は順調に買収されて行きました。

『対馬の土地がコリアンマネーで買われている』と大騒ぎしていた方々、これを見てどう思いますか?

町井久之氏はこういう経緯で福島県の西郷村一帯を大規模買収して巨大資本を突っ込んで開発を進めて行きました。

こういう前提がまずあって、そこに、『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』で克明に描写されている賄賂漬けの選挙、県政、公共事業などの問題につながって行きます。

昭和47年、白河高原の開発に足枷をはめる事態が起こります。まず、県は開発規制を目的に6月に「生活環境部」を設置。更に10月には福島県自然環境保全条例が制定しました。

田中角栄の列島改造論は空前の土地ブームを引き起こし、地価の高騰や乱開発に対して野党や世論から批判が相次いでいました。そうした声に応えるために作られたものです。

この条例により5ヘクタール以上の開発は60日以上前に県への届出が義務づけられ、知事が開発行為に対して助言、勧告、の権限を持つことになりました。

昭和48年、更にこの権限が強化されます。県当局(つまり、「生活環境部」)との「事前協議」が制度化されました。これを経ないと開発の届出が出来ないため、事実上はかなりの強制力を持っていました。

こうして、「開発」したい業者を生かすも殺すも「生活環境部」との「事前協議」のさじ加減ひとつという状態が作り出されました。自然を守るための条例が、いともたやすく利権を生み出せる構造を生み出しました。

昭和48年の暮れ、石油ショックが起こります。東亜相互企業もこの煽りで資金繰りが少し苦しくなり、ゴルフ場開発計画を一部変更して分譲地造成に変更しました。

この申請を少しでも早く済ませて着工したかったようです。ところが生かすも殺すも「生活環境部」次第・・・ とにかく円滑に申請を通して戴きたいという陳情を東亜相互企業は慌しくするようになります。

これで、町井久之氏側が福島県知事に付け届けをしたくなった背景事情は、大体理解できると思います。

次回は、県知事やその支援者側の事情などに触れます。それに加えて、もう1冊紹介したい本があるので、そのお話も少しだけ入れるかも知れません。

その辺りが大体片付いたら、福島県立図書館で拾ってきた情報についてお話します。

当時の福島県で何が起こっていたのか、大まかな知識を持っておかないと、目の前に宝の山があっても気づかずに通り過ぎてしまうことになります。少し退屈に感じる人も居るでしょうが、気長におつきあい下さい。



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2009年9月25日金曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その9)

瀬戸弘幸さんは無事に退院されたようで何よりです。

入院されたという報告を受ける直前に少々取り扱いがデリケートな情報を入手していたのですが、退院されるまでは触れないでおこうと考えて、資料整理等の時間に充てさせて戴きました。

時間を空けた理由は主に2つです。

入院中は、十分な反論もできないだろうという事で、退院をお待ちしたというのが第一点。また、私が追求する問題の範囲が瀬戸弘幸さん個人の問題では収まらなくなる見通しになって来ていたので慎重に取り扱おうと考えたというのが第二点。

瀬戸弘幸さんの過去を調べていく中で、どうしても実名を出さざるを得ない一部の人たちの名誉なども考えると、調べずにフカシ記事を適当に書いて、間違っても訂正しない、謝らない、そのまま投げっぱなしにするといった、報道倫理のカケラもない態度は避けるために、ある程度、手元に集めた情報について更に調べて整理する時間が必要でした。

それでも完全に裏が取れていない部分はあります。そういう部分は正直にそのように書きます。相手の実名を出して批判をする以上は、その程度の配慮は当然するべきだと思うのですが、瀬戸弘幸さんには、そうした倫理観が欠如しているように見えます。

また、今後調べていく中で、私の推論に誤りがあることが分かれば速やかに訂正します。疑惑を並べるだけ並べて間違っても(故意にミスリードする記事の方が多いみたいですけどね)謝罪しない無責任な詐称ジャーナリストと一緒にならないためにも。

では、本題に移って行きたいと思います。

『徐才喜冤罪事件』の全文を読むにはどうしたら良いだろうかと、前回エントリーを書き終えてから何となく考えていました。「政経東北」という雑誌はマイナーで、国会図書館に行ってもそれほど古いものまで遡って探すことは出来ませんでした。

これはさすがに手詰まりだろうかと思いつつも、色々探してみました。東北地方の経済雑誌なんだから、向こうの図書館には置いてあるんじゃないだろうかという発想で、瀬戸弘幸さんのお膝元で探してみると・・・

福島県立図書館の蔵書には、かなり古いバックナンバーから全部揃っています。ついでに、この図書館の蔵書から瀬戸弘幸さんの著書を探してみました。割と良く見かける著書に紛れて、初めて見かけるものがありました。

[郷土資料の雑誌詳細表示]
月刊ルポルタージュ 昭和54年8月15日[号] 特集記事:なぜ?小針批判キャンペーンなのか!!
二本松タイムス 昭和54年9月1日[号] 特集記事:淀む市政・驕る石川市長!

こんなものを出していたんですね。これも是非読んでみたいと思いました。

また、瀬戸弘幸さんが徐才喜冤罪事件と称している事件の引き金になった、福島市太田町婦人殺人事件についての当時の福島の新聞報道がどうなっていたかも、この図書館に保管されている新聞を見れば調べられそうです。

もう1つ、調べてみたいことがありました。瀬戸弘幸さんは、ヤクザ者との刃傷沙汰で9ヶ月獄中に居ました。その間に、徐才喜さんが(殺人容疑についての)無罪を勝ち取って出所した事を聞かされて出所後の正月頃から取材し、記事の売り込みをしてジャーナリストデビューしたと自身で述べています。

また、この傷害事件について市議会で追求されたために福島市役所を懲戒免職になったということだったので、当時の市議会会議録を見れば、傷害事件のあらましが分かる可能性があります。福島県立図書館には昭和52年3月分以降の議事録が保管されている事が分かりました。

これより古いものは、福島市立図書館に保管されているのですが、そこまで回るとさすがに時間がありません。

こうして下調べをして行くと、福島県立図書館だけでもかなりの情報が得られることが判ってきました。東村山の街宣や裁判傍聴などに欠かさず出かけているブロガーの方々の労苦などを考えると10回分の金銭や時間の出費を1~2回でまとめて注ぎ込んだと思えば、そんなに無茶な事をするわけでもありません。

2日間ばかり悩みはしましたが、福島行きを決断しました。

首都圏在住の私は、自分の生活を崩さずに日帰りで調べものに行くとなると5~6時間の滞在が限界です。出来るだけ効率よく調べものを片付ける必要があります。

どんな情報を掘り出すか、ある程度のアタリをつけるため、現地に行く前に拾える情報の手探りを開始しました。

遠藤文子さんについては、ネット上で情報があまり拾えないのですが皆無というわけでもないので、ここから有力情報が手繰り寄せられないかトライしてみました。

遠藤文子さんは、福島県内の小中学校の何校かの校長を務められて定年退職しました。退職金を有効に使おうと、海外視察の旅行に出かけて、日航機ドバイハイジャック事件(昭和48年7月20日発生)に巻き込まれて生還。

この貴重な体験を度々公演でお話なさっていたようです。

というわけで、Google先生で検索してみると、「ふくしま教育データベース」内で何度か遠藤文子さんのお名前が出て来ます。そこで、このデータベース内の情報を色々読み漁っていました。

すると、ハイジャック事件が少し前、福島県教育委員会の主催で、こんな公演があったことに気づきました。

昭和48年5月14日(月)~5月16日(水) あずま荘
福島県知事 木村守江 「海外を視察して」

対象者は、県立学校長全員となっていました。遠藤文子さんが前年度末あたりで定年退職して福島県教育委員会の関係者になっていたら、この公演を聴いていたのではないでしょうか。

また、木村守江知事は教育畑で熱心に活動していて政界に引っ張りあげられた人です。この公演抜きにしても、折に触れて教育問題、海外に目を向けた話をされていたはずなので、これに感化されて遠藤文子さんは定年後に海外を見に行こうと考えたのではないかな・・・ と私は感じました。

そこで、木村守江県知事に関心が移って少し調べ始めたんですが・・・ 昭和51年に贈収賄で逮捕され県知事を辞任しています。その後有罪。現職の県知事が立件され辞職というのは異例中の異例です。

そして、この贈収賄の相手というのが、セマウル運動に絡んで何度も私が取り上げてきた猛牛(ファンソ)こと、町井久之氏の東亜相互企業でした。

またしても、町井久之氏の影です・・・ 気になったのでWikipediaを見直すと確かに、この件について書いてあります。もっとしっかり読んでおけって事ですね。

早速、この贈収賄事件についてもっと掘り下げて調べることにしました。ネット上で詳しく調べてみたかったのですがあまり詳しく解説しているところがないようなので書籍を探してみたところ、「木村王国の崩壊」という本が見つかりました。

近所の図書館に置いてあったので早速借りてきて読みました。福島県に対する私の印象は、この本を読んでかなり変わりました。実際に出向く前にこの本を読んでおいて良かったと思います。

少し長くなりそうなので、続きは次のエントリーに回します。



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2009年9月8日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その8)

28歳の頃の瀬戸弘幸さんが一生懸命書いて高い評価を戴いたという「徐才喜冤罪事件」という短期集中連載記事。ブログ上にアップしていただいている画像では細かい文字はほとんど読み取れませんし、全文が見られるわけでもないのですが、色々と貴重な情報を読み取ることが出来ました。

徐才喜さんという人物がどんな人なのか知りたくなったので、google先生に質問してみたところ、瀬戸弘幸さんのブログ以外では、Whois検索の結果らしき残骸が引っかかり、中国ドメインで登録者というか団体というか・・・ その辺りが徐才喜さんになっているものがある。

どうも韓国ではなく、中国と縁がある人物名ではないかと思えて来たので、中国版のgoogle先生とお話してみると、「徐才喜烈士」について書いてあるサイトが沢山ある様子です。

これは一体どうしたことでしょうか? 偶然の一致なんでしょうか?

割と似たような説明が多かったので、そのうちの1つを拾って来て、エキサイトさんに訳してもらいました。

【原文】
互动百科的词条资料来自网友贡献,供您查阅参考。一些和您切身相关的具体问题(特别是健康、经济、法律相关问题),出于审慎起见,建议咨询专业人士以获得更有针对性的答案。

【excite 中→日 翻訳】
1933年革命に参加して、任紅の3人の軍団の戦士、北上して音信がなくて、時の年の24歳。

【ネットで関係ありそうな情報を補足】
1933年、瑞金の紅軍を包囲、毛沢東らは脱出し、以後、延安までの12000kmに及ぶ長征と呼ばれる大行軍を行った。毛沢東は延安を革命拠点とした。

これは随分とマニアックなところから名前が出てきたものですね。一般的な日本人なら絶対に気づかないでしょう。特にネットが発達していない時期なら中国人名と韓国人名の見分けなど絶対につかない。

もちろん、韓国人に徐才喜という名前の方が絶対居ないとは断言出来ませんが・・・

別の観点でもう少しお話をさせて戴きます。『福島市太田町婦人殺害事件』という大きな見出しが躍っていますね。実は、これが大きなヒントです。この事件を丹念に追いかけている人をネット上で見つけました。

2006年 4月 3日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔  手 』(第五十八回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 4日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔  手 』(第五十九回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 5日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔  手 』(第六十回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 6日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔  手 』(第六十一回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]

(第五十八回)の記事から引用


【事件の概要】
福島市の元校長、遠藤文子さん殺しが起きたのは昭和51年10月20日午前11時から午後4時までの間。元校長で同市社会教育委員の遠藤さんが自宅応接間で、工事用の特殊ハンマーで顔や頭、胸などをメッタ打ちされ、死んでいた。
 翌21日に親類の人が無残な遠藤さんの死体を発見、福島署へ届け出た。
 部屋は荒らされていたが、現金や高価装身具(指輪・ネックレス等)は無事。満六年が過ぎた現在も犯人の動機も絞りきれず、捜査員の間では物取り説、偽装工作によるえん恨説の二つに意見が分かれたままである。
 唯一の手がかりであるハンマーは福島市の工事業者が紛失したものと判明している。
 この特殊な金づちが、なぜ遠藤さん宅に残されていたのか、道路などに落ちていたものを遠藤さんが持ち返るということも考えられない。犯人があらかじめ持ち込んで凶器として犯行に使用して応接間に残し、あわてて逃走したという見方が強い。
 『 絶対に迷宮入りの事件ではない。確かに新しい事件で捜査が中断することはあっても、粘り強い捜査を続ければ必ず犯人に行き着く 』 と捜査本部の解散には反対意見もある。
 六年間の歳月は市民の記憶を薄め、新情報はほとんどない。
 『 これまでの捜査方法で見落としはないかどうか。念には念を入れる捜査を続けるだけだ 』 というが・・・・・。

 昭和57年(1982年)10月19日(火曜日) 福島民法新聞 社会面より参照


ざっと探した感じでは4回分のエントリーでしたが丁寧に情報を拾ってありました。好感の持てるブログです。

記事を全部読んでいただければ分かるんですが、誰も逮捕されていないようです。瀬戸弘幸さんが仰るには真っ先に徐才喜という中国の烈士と同姓同名の在日朝鮮人の方が疑われて即座に不当逮捕されたって事になっています。

瀬戸弘幸さんは『私はこの年(1978年)の正月頃から、福島市で起きたある強盗殺人事件で逮捕された在日朝鮮人の冤罪事件に取り組んでいました。』と説明なさっています。

つまり、昭和53年(1978年)の時点で容疑者や逮捕者が出ていれば、『昭和57年(1982年)10月19日(火曜日) 福島民法新聞』において、全く犯人像が特定されていないといった記事が出てくるはずもなく・・・

これは一体どういう事なんでしょうか?

瀬戸弘幸さんの記事全文の詳細が読めるように公開して戴ければ判断が覆る可能性もありますが、現時点で拾える情報からは… 瀬戸弘幸さんのジャーナリストデビュー作は、架空の在日朝鮮人が逮捕され、不当捜査されていると、警察を批判する怪文書の類であったのではないかと判断せざるを得ません。

もちろん、これらから裏を取る作業に着手して行きたいと考えています。名探偵マッシーさんが紹介している情報の正確さが新聞記事などからある程度読み取れれば、どちらの主張が正確か大よその判断はつくはずです。

ただし、古い新聞記事を図書館等に読みに行く時間をすぐには取れないので、確認は少し先送りになります。

お暇な方、『福島市太田町で昭和51年10月20日に発生した殺人事件』について、新聞記事漁りのお手伝いなどをして戴けると助かります。これだけ特徴的な事件だと地方紙ではなく全国紙にも載ったはずなので、事実関係の裏取りくらいは可能なはずです。

で、瀬戸弘幸さんがこんなアヤシイ記事を書いた動機なども色々想像してみましたが、今回は長くなってしまったので続きは次回に回します。

【お詫び】
今回も予告とは全く違う流れになってしまいました。毎度の事だと笑って流して戴けると幸いです。セマウム問題でまだ触れていない部分はタイミングを見て必ず紹介します。

【追記】
今回のエントリーを公開してから数時間後、google先生に「徐才喜」さんについて再度お尋ねしたところ、今までは表示されなかった中文版の情報が大量に表示されるようになっていました。

流石はgoogle先生、お仕事が早い。今後は、私の批評とは関係なく、瀬戸弘幸さんのブログを見た人が『徐才喜さんってどんな人かな?』と疑問を持つと、漏れなく中国の革命烈士の情報に辿り着く事になりました。

もちろん、在日朝鮮人に「徐才喜」というお名前の方が絶対に居ないと断言するものではありませんが、私と同じ疑問を持つ方が当然のように出て来るでしょう。

瀬戸弘幸さんは、ジャーナリストデビュー作である「徐才喜冤罪事件」の全文公開に踏み切らない限り、こうした疑念を払拭することは困難だろうと思います。



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2009年9月7日月曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その7)

PCが不調で用意していた原稿と資料が2回分ほど飛んでしまいましたので、資料を集めなおすところからやり直していました。

その間に、でぶちんさんがデタオタらしい観点の資料を探して下さったり、松沢呉一さんが新しいヒントを下さったり、色々思うところもありで、当初用意していた原稿の時点では気づいていなかった事を掘り下げて調べなおすのに時間を使わせて戴きました。

前回予告したとおり、大枠としては、韓国復興史全般に視野を広げて行こうという方針ではありますが、「セマウル問題」から軸足は外さない事にします。また、本シリーズ終了後に補講扱いでと考えていた「セマウム(新しい心)運動」について、これから少し紹介して行きます。

なかなか予告どおりに進行させられなくて申し訳ありません(今後は予告はやめた方がいいかも知れませんね)。

では、気を取り直して、セマウム運動の説明から始めます。

表向きの「セマウム(新しい心)運動」は、在日韓国青年会(民団の青年会)が主導して行ったボランティア活動で、『在日同胞60万人のセマウム(新しい心)をキムシ(植樹)しよう』という事で、平たく言うと韓国に里帰りして「セマウル(新しい村)」に植樹ボランティアをするものです。

『韓国農村部(セマウル)と在日同胞(セマウム)をつなごう』という事ですね。せっせと植樹ボランティアをします。この際、津々浦々のセマウルに対して在日同胞から募った「セマウル支援誠金」(募金)を配布します。

ここまでは、美談として語れる部分。では、裏側に切り込んで行きます。

まず、この「セマウム運動」は、植樹ボランティアにかこつけて(大半が不法入国者であったはずの)在日韓国人が大手を振って韓国に一時帰国するためのイベントでした。

民団のHPに非常に興味深い一文があります。

民団の歴史より一部抜粋


 また、祖国のセマウル運動に歩調をあわせて73年にセマウム運動を提唱し、祖国の山々に苗木を植えることを通して在日同胞60万人のセマウムシムキ運動に発展させ、祖国の150カ所の郷土集落とセマウル姉妹結縁に結びつけた。

 75年7月には朝鮮総連傘下の同胞に母国を訪問させる省墓団事業を開始し、これによって民団と総連の人口比率が逆転することになった。


不思議なことに、植樹ボランティアを端緒に、お墓参りなどの母国訪問事業を充実発展させた結果、民団と総連の人口比率が見事に逆転しているんですね。

不法入国して永住許可を得た在日韓国人たちが、セマウム運動という植樹ボランティアで里帰りして家族に会い、日本に堂々と連れてくる。そのうち省墓団事業なども認められ、その枠が拡大して行く・・・

もしかしたら、実際は家族でない者を入国させる事例もあるのかも知れませんね。私はその辺りの事情を詳しく把握しているわけではありませんが・・・

ちなみに、この「セマウム運動」で里帰りに使われたのは、下関-釜山を結ぶ「関釜フェリー」です。こんなものを参考に紹介してみます。

第080回国会 法務委員会 第7号 昭和五十二年四月一日(金曜日)より一部抜粋

本年の集団不法入国事犯のうち、特異なものとしては、関釜フェリーを利用(通関済みのコンテナー搬送用車両の車軸の上に潜伏)した事案が、昭和四十五年回フェリー就航以来初めて検挙されたほか、日韓双方の密航ブローカーが緊密な連絡をとり、密航者を洋上で日本船に積みかえた上、自動車を利用して搬入した大がかりな組織的事案が二件検挙されている。すなわち、十月十日福岡県博多港において、対馬から入航した定期フェリーに積込まれたトラックに潜伏中の密航者三十三人が、また十一月十一日大阪市内において、福岡県苅田港から大型保冷車で搬入された密航者四十人がそれぞれ検挙されている。
となっております。


韓国からの密入国は「関釜フェリー」だけで行われているわけではないのでしょうが、確実にこれも利用されていることは分かると思います。

この「関釜フェリー」の社長は、瀬戸弘幸さんの大恩師である児玉誉士夫氏の側近中の側近、町井久之氏です。本名は鄭建永(チョン・ゴニョン)、「銀座の虎」、「雄牛」という通り名で呼ばれた人です。

民団の中央本部顧問であり、東声会(東亜会の前身)という反共団体(実質的に暴力団)の組長という人物でもあります。

朴政権が「セマウル運動」を開始する少し前「関釜フェリー」の事業認可を受けて社長に就任、「セマウル運動」開始直後には、民団の中央本部顧問に就任。ほどなく、「セマウル運動」と連携する形の「セマウム運動」が始まります。非常に良く出来たお話ですね。

「下関-釜山」ルートがつながり、韓国内は朴政権がセマウル号が「釜山-ソウル」ルートを中心に各地を鉄道網がつないでいるので「セマウム運動」に参加する在日同胞の方々は、その交通網を使ってボランティアにいそしんだわけです。

瀬戸弘幸さんたち民族派右翼有志の方々が「セマウム運動」と同行していたかどうかまでは定かではありませんが、少なくとも交通手段はほとんど同じものを使っていたと思われます。

ネトウヨの皆さんが『日韓海底トンネル構想に賛同する日本の政治家は売国奴だ!!』と騒いでいるのを良く見かけますが、瀬戸弘幸さんは、児玉誉士夫氏と町井久之氏がつるんで「関釜フェリー」を開通させたと重々承知の上で児玉門下生になってると思います。何も疑問を感じないんでしょうか?

せっかくなので、もう少しいじってみましょうか。本シリーズ第1回目の赤報隊襲撃事件に絡んで、瀬戸弘幸さんが義勇軍創設に関わっていたと手柄横取り発言をしている件について触れた時に紹介した記事内にこうあります。

『昭和56年頃、私は東京・東銀座の合同環衛ビルという所を事務所兼住まいとして、日本憂国会という名称で右翼活動をしていました。』

東京都中央区で検索したところ、現在は「合同環衛ビル」は存在しないようです。近所を探すと、お隣の台東区は浅草に「環衛商事有限会社」というのがありました。産廃業者のようです。

ですが、「環衛」で検索してみると、これが意外にも大量にヒット。どうやら産廃業者には割とありがちな名前だという事が分かりました。ところで、瀬戸弘幸さんも「環境と施設」という謎の雑誌を出版されていましたね。

興味深かったので少しだけ検索してみました。在日関係や右翼関係で、何故か産廃業者をやっている方や、それとつながっている方々が結構居られるようですね。今後、松沢呉一さん辺りが掘り下げて下さるかも知れません。

少し横道に逸れました。私は私らしい路線でもう少し踏み込んで行きたいと思います。

瀬戸弘幸さんは25歳の時(昭和52年頃?)にヤクザを右翼に誘ったと因縁をつけられて斬り合いになり、相手に重傷を負わせて、傷害と暴行の容疑で逮捕。即、実刑。共産党の市議に市議会で追求されて、市役所は懲戒免職になったんでしたよね?

実刑でどれ位の刑期を過ごされたかは存じ上げませんが、とりあえず1年程度と見ておきましょうか。

市役所を懲戒免職になったということは退職金はゼロ。25歳ですから元々ほとんどもらえなかったでしょうが・・・ 前科持ちで懲戒免職になった人は、なかなか通常の会社は雇ってくれませんから、どのように生計を立てて居られたのか気になるところですが・・・

兎に角、真っ当な収入があまりなかったはずの瀬戸弘幸さん(山本弘幸という名前で在日同胞の人たちをたくさん助けてお金を稼いだかも知れませんが・・・)、何故か娑婆に出て3年かそこらで東銀座に事務所を出すという異例の出世です。

それが丁度、「セマウル運動」への参加を始めた頃と重なるわけです。何故ボランティアに参加すると羽振りが急によろしくなるのか・・・

東銀座や築地界隈は、稲川会のシマなので松沢呉一さんが児玉誉士夫の人脈つながりで瀬戸弘幸さんを見て行く時にも、ついつい稲川会のラインで見てしまい勝ちになるのは分からないでもない気はします。そちらのラインも間違ってはいないのかも知れません。

ですが、熱心に「セマウル運動」に参加している瀬戸弘幸さんを見ていると、すぐお隣の銀座で牽制を誇っていらっしゃった猛牛(ファンソ)こと、町井久之氏の存在感の方に目が行ってしまう私です。

「セマウム運動」の第一人者、言いだしっぺとして名を刻んでいる尹隆道(ユンユンドウ)という人がいます。この人は、民団青年部の創生期を引っ張った草分け的存在のようですが、もうひとつ別の顔がありました。

大島渚監督の映画「絞死刑」という映画で、少年R役で出演していました。Wikipediaの紹介文を転載しておきます。


主人公の在日朝鮮人死刑囚"R"は強姦致死等の罪で絞首刑に処せられた。しかし信じられないことに絞縄にぶら下がったRの脈はいつまで経っても停止せず、処刑は失敗する。縄を解かれたRは刑務官たちの努力の末に漸く意識を取り戻すが、処刑の衝撃で記憶を失い心神喪失となっていた。刑事訴訟法により、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失状態にあるときには執行を停止しなければならない。刑務官たちは再執行のために彼に記憶と罪の意識を取り戻させようと躍起になるが、Rの無垢な問いかけは彼らの矛盾を鋭く抉ってゆく。忠実に再現したという死刑場を舞台に蜿蜒と続くやりとりは、死刑制度の原理的な問題から在日朝鮮人差別の問題、さらには貧困を背景とした犯罪心理にも及ぶ。
Rは1958年の小松川事件の犯人をモデルにしている。


小松川事件は在日少年に対する冤罪事件ではないかと当時色々言われたもののようです。興味がある人は検索してみて下さい。

尹隆道氏もまた、山本弘幸というペンネームで在日韓国人の冤罪を晴らそうとした瀬戸弘幸さんと同じ立場でもあったようです。尹隆道氏や彼に近い考えの民団関係の人が、山本弘幸名で書かれた「徐才喜冤罪事件」を目にしたら、さぞかし喜んで、民団内で話題にしたでしょうね。

そして、民団の中央本部顧問であり、「セマウル運動」や「セマウム運動」の根っこの部分を押さえてコントロールしていた町井久之氏の耳に入って、その人物が児玉誉士夫門下生だと分かったら、在日同胞と仲良くする事業を通じてフトコロを暖かくしてやろうって配慮してくれそうな気がするなぁ・・・

・・・と、この辺はワールドワイドウェブの勝手な想像です。具体的な証拠を突きつけて糾弾しているわけではありませんよ。

退職金ゼロの懲戒免職になった瀬戸弘幸さんが、3年やそこらでどうやって東銀座の事務所を借りられるほどリッチになったのか、支持者の方々に説明すればこんなバカ話はすぐに吹っ飛びます。ジョークで流せますよね?

さて、これ以降は冗談抜き。児玉門下生の瀬戸弘幸さんは、東銀座に事務所を構えていたんですから、すぐお隣の銀座で権勢を誇っていた児玉誉士夫の側近中の側近である町井久之氏の事は十分ご存知ですよね。

「セマウル運動」にせっせと参加なさっていたんですから、「関釜フェリー」の社長であることもご存知だったはずですし、民族派右翼が、日本側から「セマウル運動」に連帯しようとしたのと同じように、民団もまた「セマウム運動」という形で連帯しようとした事も知らなかったはずはないですね。

その結果として、「民団」が「総連」より力をつけたことも恐らく知っているはずです。それが日本国内における「反共」の闘いのために必要なことだと信じて助けてきたはずですし、積極的に関与しなかったと言い訳するにしても、少なくとも知っていながら見逃してきたはずです。密入国や、密入国者が堂々と家族を呼び寄せていることなどについて。

反共イデオロギーのために民団が力をつける事に力を貸してきた瀬戸弘幸さんたちが、そうした事実を隠して在日批判をしているのを見ると、つくづく汚いなぁと思います。批判するなら自分たちが何をしてきたのかまず正直に全部吐き出すべきです。

次回も「セマウム運動」についての指摘を続けます。



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2009年9月2日水曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その6)

せと弘幸Blog嫌韓派に転じた理由より引用


何故、私は嫌韓派に転じたのか!(前編)

日本オリンピック委員会は抗議せよ!

日本は韓国によって覆い隠されている!

 先般も書きましたが、私はお隣の韓国には何度も行ったことがあります。私が右の活動に参加した頃、韓国は旧ソ連や北朝鮮、中共からの共産主義の侵略を食い止める同盟国と捉えていました。

 今で言えばボランティア活動のようなものにも参加しました。セマウル運動と呼ばれた農村生活改善運動です。私にとって韓国とは反共の砦であり、日本人が死守しなければならない国でした。

 そのような考えを長い間持ち続けて来ました。それが少しづつ揺らぐようになったのは、金大中大統領の頃からでした。しかし、冷戦崩壊後においても、決して敵性国家との考えはなかった。

 私はノ・ムヒョン大統領は、日本で言えば左派勢力であり、韓国の中にも保守派、或いは右派と呼ばれる人達が親日派として存在しており、政権が変われば、また仲良くやれる国であると思っていました。

 しかし、どうも私の考えは甘かったようです。近代化を成遂げ経済的にも成功すると、その自信は日本に対する反抗心というか、対抗心剥き出しの反日ナショナリズムへと向かっていきました。

 それは明らかに日本を蔑視する誤った排外的なナショナリズムです。それは政治・経済の分野に留まらず、スポーツの分野にまで及んでいます。

 スポーツの祭典といわれるオリンピックなどにおいては、その異常なまでの日本を敵視する排外的なナショナリズム一色に覆われてしまう。スポーツの勝ち負けや、優劣で何事も解決しないのは、分かり切ってはいても、勝たなければと血道をあげる様は、もう常道を踏み外している。

 例えば、下記は韓国の正式な冬季オリンピックのHPです。

http://www.pyeongchang2014.org/eng/main.html

 見て驚かれたでしょう。日本が見当たらない。そうです、日本という国は韓国によって覆い隠されてしまっています。日本人はこのようなことはしないでしょう。いくらなんでも酷過ぎますね。

 これが今の韓国の姿なのです。日本と仲良くやろうなどという気持ちがまったく感じられない。何故なのか?その意味を問わなければならない。

 日本オリンピック委員会は正式に抗議すべきである。もし、このような侮辱を続けるなら、開催地の資格があるのかを、公式に国際社会に訴えなければならないであろう。


ここまで色々見て来ましたが、表向きは「セマウル運動」というボランティア活動のようなものに参加してきた瀬戸弘幸さんが、韓国の青年たちとの共闘を呼びかけたところ、ネトウヨ・嫌韓厨たちの猛反発を食らい、その後しばらくやり取りを続けた結果、彼らの熱意に押されて自らも嫌韓路線に切り替えた事になっています。

そして、これまで30年近く続けてきた親韓路線との決別をこのようなエントリーで説明しようとしたわけです。

韓国の冬季オリンピックHPに『日本が見当たらない』と激怒している瀬戸弘幸さんですが、東京都がオリンピックを招致しているHPなどを見て戴きましょうか・・・

Tokyo 2016 - 東京オリンピック・パラリンピック招致委員会 日本だから、できる。あたらしいオリンピック!

『なんと、韓国が覆い隠されている!! これは明らかに韓国を蔑視する拝外的なナショナリズムです。経済的に成功した日本は、その自信を反抗心というか、対抗心むき出しの嫌韓ナショナリズムへと向かわせました。』

アホらしい・・・ 瀬戸弘幸さんの脳内世界をそのまま持ち込むと、韓国で日の丸燃やしてる人たちが量産できそうです。

もちろん、こんなものが瀬戸弘幸さんが嫌韓になった本当の理由でないことは明らかです。

このエントリー内に本音は見え隠れしています。

『金大中は気に食わなかった。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権でそれが決定打になった。』という点は恐らく本心です。ただし、理由が完璧にウソ。(※次回以降、この理由について検証して行きます。)

瀬戸弘幸さんは、全斗煥政権下のセマウル運動に参加していました。ところが、ソウルオリンピック直後に全斗煥ファミリーがセマウル運動の公金を横領していた事が発覚し、韓国の国民が大いに怒ります。

この事が原因で、全斗煥大統領は失脚し、16年ぶりに選挙が行われ、民主的に大統領が選出されます。盧泰愚(ノテウ)政権の始まりでした。

盧泰愚大統領は国民の怒りや不満を受けて、セマウル疑惑を究明。光州事件(民主化要求デモ鎮圧で民間人を多数虐殺)の追求などもあり、全斗煥元大統領は、一時は死刑を言い渡されます。その後、減刑と特赦をされてはいますが・・・

このように、韓国の国民から見た全斗煥大統領の評価は、公金を横領して私服を肥やしたり、民主化を要求した民間人を大量虐殺した軍事独裁者。評判は芳しくありません。

やがて、盧泰愚大統領も光州事件の責任追及などをされて(彼もまた軍人出身でした・・・)、民主化政権も文民政権の時代へと移って行き、金大中や盧武鉉の時代へ。

瀬戸弘幸さん自身の立場に立って考えてみても、『中共からの共産主義の侵略を食い止める同盟国と捉えて、真面目にボランティアしていた』のであれば、その裏で公金横領していた大統領だと知って腹が立たないわけがない。

瀬戸弘幸さんと立場が近い、勝共-統一原理の民族派右翼の「亜細亜民族同盟」(旧柳川組 ※在日系)が、在日フィクサーの許永中氏と組んで、この大規模公金横領のマネーロンダリングを手伝っていたとなれば、更に腹立たしい思いがしたはずですが、全くそうした気配がない。

瀬戸さん自身が、この横領に加担したのかどうかは知りませんが、彼らとグルだったのか、似たような不正や利権の吸い上げを「セマウル運動」でやっていたので言えた義理ではないのか、『反共のためなら、これほどの悪事すら許されると考えてしまう恐るべき1ビット脳』なのか、いずれかであるとしか考えられません。

いずれにしても、正常な日本人の思考ではありません。

「セマウル運動」で私服を肥やしたり、韓国で民主化要望する民衆を弾圧して大量虐殺したため、忌み嫌われる大統領が大好きで、正当な政権だった、仲良くやっていける政権だった考えている瀬戸弘幸さん。

韓国人たちは、好きで軍事独裁政権下で暮らしたかったわけではないはずです。反共のためにやむを得ず我慢していた側面はあるにせよ、喜んで受け入れていたわけではありません。

瀬戸弘幸さんは、韓国人が望んで手に入れた政権は悪い政権だと必死にケチをつけ、オリンピックHPまで持ち出しておかしな難癖をつけています。しかし、そこには瀬戸弘幸さんの本心はありません。

こういう政治的スタンスの人が、その数ヶ月前には「セマウル運動」の正体を隠して、ただのボランティアのように紹介しながら、韓国の青年たち(実は統一協会に思想洗脳された人々)と共闘しようと、ネトウヨ・嫌韓厨をオルグしようとしていた。

これで大体の事情が飲み込めて来たと思います。瀬戸弘幸さんは、韓国の事情をよく把握しています。分かっていながら間違った情報を発信してミスリードを繰り返します。

「セマウル運動」の話題は、このシリーズ中でまた触れると思いますが、まとまったボリュームで取り扱うのはここまでにします。

瀬戸弘幸さんが嫌韓になった本当の理由をうまく説明するためには「セマウル運動」だけではやや間口が狭いので、次回以降は、韓国の復興全般に主眼を移して行きます。

【追記】
2ちゃんねるのウォッチ板で貴重な情報が寄せられていましたので、元ソースの方を転載しておきます。

創価と統一教会は韓国でもカルト より一部抜粋

韓国には、統一協会の男性信者と結婚した日本人女性が数千人いるという。彼女たちの多くは農村で「新しい村運動」を主導しており、模範的女性との評判がある。日本語も教え、村掃除などのボランティアも行う。韓国人の若い女性が農村を去って行くなか、日本人の女性が、しかも韓国の農村に嫁いで働くというのは理解しがたいことだ。だが、これが宗教の力だと思う。とはいっても、正統な宗教ではないカルトの行う善行は不安であり危険だ。終末は異端の時代であるし、異端はいつも政治的、経済的な力で人々を誘惑する。韓国キリスト教総連合会では統一協会からの挑戦を憂慮し、3月3日から特別祈祷会を行う。


他にも統一教会系の書籍にセマウル運動、セマウム(新しい心)運動について触れられている事も紹介して下さっていましたが、こちらの本には気づいていました。いずれにしても貴重な情報ありがとうございました。

セマウム(新しい心)運動についても、1回分を割いて書きたいことがあったのですが話が膨らみすぎているので、本シリーズが完結してから補講的に別枠でやるかも知れません。

瀬戸弘幸さんは、現地で生の情報に触れています。もっと色々な事を知っているはずなんですが残念な限りです。

ねらーや、その他ネットで情報を拾って来られる方、統一協会(統一教会)の合同結婚式で身内の方が被害に合ったという方、あるいは元信者の方などで、当時のセマウルなど韓国農村部で何が起こっていたのか断片的にでも情報を持っている方がいらっしゃれば、コメント欄に書き込みでもして行って戴けると助かります。

または、2ちゃんねる内で適当に話題にして戴ければちゃんと拾い上げて行きますのでよろしくお願いします。

そうした情報が蓄積されて行けば、瀬戸弘幸さんの宿題遺棄が少しは解消されて行くと思われますし、情報の共有によって、現在困難な状況に陥っている方々の助けになると思います。

また、情報がなくても、ちょっとしたコメントを残して行くだけでも結構です。色んな人の気持ちがそこに交錯しているんだと、瀬戸弘幸さんにも見て戴く必要があると私は考えています。



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2009年9月1日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その5)

ちょっと脳内でフェムト波動復調回路が働いたので、Googleさんで色々と検索してみましたところ、面白いものを拾い当ててしまいましたので、前回予告とは違う方向に走ります。

『韓国・全斗煥大統領の実弟、全敬煥が3月18日に来阪、藤田永中や日本土地の木本社長ら6人と日航ホテルで密談している。そして全敬煥は帰国後、韓国当局に逮捕された。』

前回も検証していたこの文章の、『日本土地の木本社長』についても調べてみました。山口組系旧柳川組の金庫番を努めていた方だったというネタが拾えたので、柳川組や右翼について更に検索。

2ちゃんねる「何故多くの弟子が大山の元を離れたのか?part2」より一部抜粋


336 :柳川組  :2001/03/31(土) 19:57
 1967年から始まった大阪府警の柳川組集中
取り締まりを経て、69年組を解散。その後78年5月
、右翼政治結社、「亜細亜民族同盟」を結成している。
それまでの名前「次郎」を「魏志」に変えたのも、
このころからである。

337 :柳川組  :2001/03/31(土) 20:04
 以降、日韓親善友愛会名誉会長を務め、許と同じく、
韓国民主平和統一諮問会議の、委員、さらにはソウルオリンピック
支援活動など、一転して表の社会に身をさらしてきた。
柳川は、91年に68歳で病死するが、同民族同盟の会長
を引き継いだのは、元公安調査庁の調査官で、スパイ工作に従事
してきた経歴を持つ佐野一郎だった。(佐野は99年11月に
事故死)

338 :柳川組 :2001/03/31(土) 20:10
 旧柳川組系の「亜細亜政治連盟」と「極東民主同盟会議」
(以降極民同)は、ともに歴代の韓国政権中枢部と深いつながり
を持っていることで際立っていた。
 霊感商法で知られる、統一教会の政治組織「国際勝共連合」
などと一緒に大挙して訪韓し、韓国側に歓待され、
中でも「極民同」は軍事訓練まで受けている。

339 :柳川組 :2001/03/31(土) 20:15
「亜細亜民族同盟」は、現在の韓国大統領・金大中が、
KCIAによって東京のホテルから拉致され、殺害されかかった
いわゆる、「金大中事件拉致事件」の際、日韓を股にかけ、
さまざまな謀略工作を行ってきたことでも、
知られている。

340 :極東民主同盟会議 :2001/03/31(土) 20:32
91収入金額18億6千万円
代表 芳也武志
芳也は旧柳川組幹部


見事にヒットしました。

『統一教会の政治組織「国際勝共連合」などと一緒に大挙して訪韓し、韓国側に歓待され、中でも「極民同」は軍事訓練まで受けている。』

Wikipediaで勝共連合の項目を見ると(※面倒なので今回はリンクを貼りません)、軍事訓練は勝共が結成された当初が一番活発だったようです。その後は穏やかな訪韓で、韓国側の統一協会のお膝元である農村部、つまり「セマウル運動」を中心に行われたんじゃないでしょうか。

それにしても、「金大中事件」まで浮上して来てしまいました。ソースが2ちゃんねるwとは言え、話は大きくなる一方です。

瀬戸弘幸さんは、民族派有志一同で「セマウル運動」で熱心に参加されていたそうですね。どう見てもただのボランティアには見えませんし、ネトウヨや嫌韓厨が大嫌いな韓国のエッセンスの集大成がそこにあるようです。それを隠してのオルグはやはり不健全です。

ところで、仲良くご参加なさっていた有志の中には「亜細亜民族同盟」や「極東民主同盟会議」といった名前はなかったでしょうか?

また、その中に「金大中事件」(1973年)について武勇伝のように語る人などは、いらっしゃらなかったでしょうか?

週刊新潮の記事に対するレビューも、どうも瀬戸弘幸さんが通ってきた道を考えると評論として浅すぎる気がするのですが、わざと知っていることに触れないようにブログ記事を書いているんじゃないでしょうか?

たかが「セマウル運動」と瀬戸弘幸さんは軽く考えていたのかも知れません。その後も軽々しくボランティアに参加していたとブログ内で書いておられますし、街頭でもそのように発言なさっているようですね?

ところが丁寧に見ていくと、瀬戸弘幸さんの人生が透けて見えてくるし、知っているはずのことをあえて誤魔化していることがちゃんと分かって来ます。

少し予定が狂いましたが、次回でセマウル問題は一段落つけたいと思います。



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