拝啓 瀬戸弘幸 殿

平成21年10月10日、徐才喜冤罪事件の取材記録が瀬戸家の石倉から出てきたとの喜ばしい報告を下さってから、早いもので8ヶ月が経過しました。

地裁の判決文全文(特に公印は必須)と、新聞が大きく報じたという、徐才喜さんの逮捕の記事の公表はまだでしょうか?

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2009年9月29日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その11)

瀬戸弘幸さんが、「犯歴報道被害者の会」という団体を立ち上げたようです。まだ活動内容がよく見えませんが出来るだけ立派な会にして戴きたいものです。

社会活動家として、公人に近い影響力の行使をしようとするなら、瀬戸弘幸さんを「みなし公人」扱いして批判しても何ら問題ないという事になります。特に「犯罪報道」によって生じる被害について、世に問う活動をなさるようです。

そういう事ならば、その分野における倫理観を正しく持っておられるかという点について、世間一般の人たちよりも厳しい基準で評価されるのは当然の事です。そうした批評に耐えられないなら最初からそうした看板を掲げたりすることは間違ってもないでしょう。

瀬戸弘幸さんは、ご自身がなさってきた事に絶対の自信があるから、「犯罪報道被害者の会」を立ち上げて、その看板を背負ったのですよね?

私がこれから批判しようとしていた事柄の根底には、正に瀬戸弘幸さんの報道姿勢に対する疑問があります。

それに気づいたのかどかは分かりかねますが、このような会まで立ち上げて、この分野で堂々と看板を掲げて「みなし公人」として扱えと宣言なさるとは、実にご立派な姿勢だと感服しました。

もちろん、瀬戸弘幸さんのご希望に沿って公人並みに厳格な目線で評価した上で批評させて戴きます。素晴らしい看板を掲げていらっしゃるんですから。

では本題に移ります。前回の続き。

昭和48年末の石油ショックで、資金繰りが苦しくなった東亜相互企業が、白河高原開発の一環でゴルフ場の一部を分譲住宅地に計画変更した事と、その計画変更の受理については生殺与奪の権利を福島県の「生活環境部」が握るような事態になって行ったことまでお話しました。

昭和49年末、更に追い討ちをかけるように国土利用計画法が制定されます。

今までの「福島県自然環境保全条例」が届出制だったのに対し、「国土利用計画法」は許可制で、更に足枷の度合いが強まります。ただし、内容は県条例に近いため、県条例のうちに「届出」を通しておけば、「許可」も同一手続きで通りやすくなるということから、駆け込み申請が殺到しました。

ちなみに、この「国土利用計画法」は、福島1区選出の衆議院議員、天野光晴氏の肝入りで作られた法律です。この方の名前は、これからもちょくちょく出てきます。

そろそろ生臭い話になってきます。

「東亜相互企業」営業の黒沢利勝氏は、「生活環境部」部長の赤井重雄氏と、木村守江県知事が4選目の懸かった選挙に出馬に関する話をしている時に、こんな事を言われたそうです。

『木村知事も今度は資金がなくて困っている。県議一人に三十万ずつ出しても一千万ずつかかる。』

黒沢氏は、赤井氏が現金を要求していると思い、日頃から面倒をみてもらっていると感じていたことからお礼をしようと考えました。木村氏と赤井氏が白河高原の開発に理解を示してくれていれば、これほど心強いことはありません。

上司とかけあって1千万円用意した赤井氏(※誤記のため訂正します)黒田氏ですが、上司の判断ミスで県庁に直接届けに行って一度は受け取りを拒否されてしまいます。こんな大金を人目があるところに持ち込んでは当然です。

上司を退場させて場を改めて設定し、木村氏と赤井氏に500万円ずつ分けて渡すことにしました。

赤井氏の分は、実際には300万円がラジウム卵という土産物の中に忍び込ます形で受け渡されましたが、これは、赤井氏がステレオ、株券、ゴルフ会員権、飲食費などに使ううちにあぶく銭として消えました。

木村守江氏の支持母体は「豊かなふるさとづくり県民会議」といいいます。

この副会長を務めていたのが、「福島県農協五連会長」の斎藤初四郎氏です。福島県の農協は、単協と呼ばれる158の組合が目的別に5つの連合組織を作る「五連制」を敷いていて、そのトップがこの人です。

木村守江氏は元々は医師で、旧軍では軍医、そして五連会長の斉藤初四郎氏は軍曹で、同じ戦場に居ました。そして、斉藤氏は木村氏の目の前で重症を負い、適切な救命処置と看護のおかげで命をとりとめ、以後命の恩人として、木村氏のためなら命を賭けられると公言するほどの間柄になります。

第077回国会 農林水産委員会 第16号などを見ていただいても良いのですが、『この五連の会長の斎藤初四郎は知事木村守江と地獄へ一緒に行ってもいいと言っている男なのです。どんな選挙をやったか、選挙違反で逮捕されている。この事実をどう見るか。』
といった厳しい追及もなされています。

木村守江氏も斎藤初四郎氏も、「木村王国の崩壊」を読めば必ずしも単なる悪人として書かれてはいないので機会があれば読んでみて欲しいのですが、兎に角、木村守江氏の最後の花道として『4選目の知事選を大勝させてやりたい』という想いが斎藤氏を突き動かします。

「福島県農政刷新連盟」という政治結社があります。農民たちの政治参画意識を集結して政治を変えようという団体で、委員長は五連会長。つまり、斎藤氏です。「盟友」と呼ばれる組織員は20万人。家族などを含めると30万票とも40万票とも言われる、非常に大きな集票能力を持っています。

この知事選は、木村氏の勝利が楽観視されていたのですが、斎藤氏は有終の美として大差で勝たせてやりたいと考えていたので、投票の棄権を少しでも減らすために農協という大票田のひきしめをしようと考えました。

農協幹部職員や県内の158の農協役員その他実弾(=ワイロ)をばら撒いて、役員から選挙は棄権せず投票しに行くように働きかけをさせようと考えました。そうなると、必要な額は1千万円。この裏金の用立ては、自民党福島県連幹事長の大野正一氏に依頼されました。幹事長のところには様々な政治献金等が集まってくるからです。

大野氏は、2つの工務店から500万円ずつ裏金を回してくれました。

1つは、元々農協との取引がある工務店でしたが、もう1つは木村氏との接点はあるものの農協との接点はほとんどありません。実は、これが「東亜相互企業」の黒田利勝氏が木村氏にワイロとして贈った500万円が偽装されたものでした。

こうした事実は、末端から頂点に向かって次々と明るみになって行くんですが、皆が一様に木村守江知事を守ろうと懸命になります。農協五連トップの斎藤初四郎などは、農協全体が組織ぐるみで選挙違反、票の買収といったことをやっていた事、この選挙だけでなかったことなども認めていました。

それを認めてでも、木村守江知事個人の刑事責任は免れさせようとした・・・ すごいことですね。農協トップが農協崩壊につながりかねない選択をしてまで守ろうとするんですから。

また、自民党福島県連幹事長の大野正一氏も矛盾を突かれて追及が福島県内の与野党県議全員にまで及ぶくらいのところまで追い込まれるギリギリのところまで、木村守江氏を守り抜こうとしていました。

あらゆるところに、トップである県知事の刑事責任追及を阻む否認の壁があり、それを突破するための地検の戦いがありました。

かなり端折りましたが、何が起こっていたかの把握だけならこの辺までで十分だと思いますので、興味のある方は本を探して読んでみて下さい。

「木村王国の崩壊」は、有罪になった人たちの事も必ずしも一方的に悪人としてなじるような書き方はしていません。機会があれば図書館などで探して下さい。

もう1冊紹介したい本があると、前回お話していました。

福島市太田町婦人殺人事件の被害者、遠藤文子さんの件で「ふくしま教育データベース」を見ていて、木村守江県知事の他にもう1人気になる人を見つけていました。

教育年報1966年(S41)-134/194pageの中を見ると、「福島県PTA連絡協議会長」という肩書きで瀬戸孝一さんという方がいらっしゃいます。

たまたま苗字が一緒なだけかもしれませんが、福島県PTAで一番エライ人だったみたいです。このお名前でGoogle検索してみると・・・

JA新ふくしま 試行錯誤のリンゴ物語


福島で初めてリンゴを栽培したのは、瀬上町の阿部又兵衛氏で、同氏は明治21年、阿武隈川の向かい側に「倭錦」(やまとにしき)というリンゴを初めて栽培したとされています。実施的に福島県のリンゴの栽培の歴史が幕を開けるのは、同じ瀬上町の阿部勉治氏が、明治40年、山形県から苗木を購入し植栽しました。4年後には5人の賛同者とともに瀬上果樹組合を発足させ大正年間までは自己流の栽培技術で試行錯誤を繰り返していたようです。
終戦後の昭和22年、既にリンゴ栽培の中心になっていた阿部健次郎(瀬上町)を会長、瀬戸孝一氏を事務局長とする瀬上リンゴ技術研究会が発足し、以後はこの組織を中心に広く県内各地にリンゴ栽培が普及しました。
 当時、本県のリンゴは倭錦で始まり、その後は祝(いわい)と旭(あさひ)が栽培の主流でありました。戦後はこれにスターキングが加わり、昭和30年~40年までは、この3品種の全盛期が続きます。現在は「ふじ」が主流となっていますが、その理由はなんといってもおいしく、貯蔵性にたいへん優れていたからです。ふじは、まさにリンゴの代表格であり市内の約70%が「ふじ」で占められています。


リンゴ栽培の草分け的存在の方ですね。更に検索してみると、この方が書いた自伝がネット古書店で見つかりました。著者の紹介を見ると大正8年生まれとの事。(※私が本を購入したので、もうネット上では情報を読めません)

瀬戸弘幸さんのブログを読み返すと、瀬戸弘幸さんのご尊父も丁度同じ年齢のようでした。

更に検索してみると、福島県議会議員に何度も当選なさっている方だということが分かったのですが興味深いことが・・・

県議会ふくしまWeb 県議会議員の紹介 議会、副議長紹介というページを見ていくと、昭和52年3月5日に福島県議会副議長を「辞職」なさっています。

私が瀬戸弘幸さんが刃傷沙汰を起こしたと予想している時期がこの辺りだったので、この情報を見つけた時は、瀬戸孝一さんが、瀬戸弘幸さんのご尊父なのではないか? と思い込んでしまうほど色んな条件がピタっと当てはまっていました。

誤解が先行するとまずいので、順序が前後してしまいますが先に少しお話しておきます。この予想はハズレでした。

瀬戸孝一さんの自伝をネット古書店で発注して手元に届いたのは福島県立図書館から帰って数日経ってからです。また、図書館で拾ったいくつかの情報からも、この事前予想は間違いだったと気づくことになりました。

瀬戸孝一さんは、福島市長・瀬戸孝則氏のご尊父でした。そして、瀬戸孝一さんには同い年の「いとこ」が居ます。恐らく、この人が瀬戸弘幸さんの父親という事になると思います。

そうでなかったとしても、福島市の瀬上(せのうえ)地区あたりからリンゴ栽培は始まっていて、その辺りに居た瀬戸一族の中で育ったという点はほぼ間違いありませんから、瀬戸弘幸さんの家柄はほとんど特定されている事になります。

なお、家柄まで掘り下げるのは下世話に見えるかもしれませんが、次回から指摘していく事項を見れば恐らくはそうも言っていられなくなるでしょう。むしろ、瀬戸弘幸さんがやらかしたことを説明するためには伏せておけないので最小限触れることについてはご容赦戴きたいと思います。

瀬戸弘幸さんは、福島県議の瀬戸孝一氏と親戚だという程度の認識はしておいて下さい。また、瀬戸孝一氏とご子息の瀬戸孝則氏は、先述の、「国土利用計画法」の天野光晴氏の派閥、いわゆる天野派と言われています。

興味のある方はWikipediaなどを見て下さい。

次回に続きます。



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2 コメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして。
最近の記事を興味深く読ませていただいている者です。

> 上司とかけあって1千万円用意した赤井氏ですが、
文脈から推察するに、ここは「黒沢氏」ではないでしょうか?
誤読でしたらすみません。続きも楽しみにしております。

2009年9月29日 2:32  

ワールドワイドウェブ さんのコメント...

ご指摘ありがとうございます。私の誤記でした。

拙いブログですが、これからも気づいた点があれば指摘戴けると幸いです。

2009年9月29日 21:40  

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