PCが不調で用意していた原稿と資料が2回分ほど飛んでしまいましたので、資料を集めなおすところからやり直していました。
その間に、でぶちんさんがデタオタらしい観点の資料を探して下さったり、松沢呉一さんが新しいヒントを下さったり、色々思うところもありで、当初用意していた原稿の時点では気づいていなかった事を掘り下げて調べなおすのに時間を使わせて戴きました。
前回予告したとおり、大枠としては、韓国復興史全般に視野を広げて行こうという方針ではありますが、「セマウル問題」から軸足は外さない事にします。また、本シリーズ終了後に補講扱いでと考えていた「セマウム(新しい心)運動」について、これから少し紹介して行きます。
なかなか予告どおりに進行させられなくて申し訳ありません(今後は予告はやめた方がいいかも知れませんね)。
では、気を取り直して、セマウム運動の説明から始めます。
表向きの「セマウム(新しい心)運動」は、在日韓国青年会(民団の青年会)が主導して行ったボランティア活動で、『在日同胞60万人のセマウム(新しい心)をキムシ(植樹)しよう』という事で、平たく言うと韓国に里帰りして「セマウル(新しい村)」に植樹ボランティアをするものです。
『韓国農村部(セマウル)と在日同胞(セマウム)をつなごう』という事ですね。せっせと植樹ボランティアをします。この際、津々浦々のセマウルに対して在日同胞から募った「セマウル支援誠金」(募金)を配布します。
ここまでは、美談として語れる部分。では、裏側に切り込んで行きます。
まず、この「セマウム運動」は、植樹ボランティアにかこつけて(大半が不法入国者であったはずの)在日韓国人が大手を振って韓国に一時帰国するためのイベントでした。
民団のHPに非常に興味深い一文があります。
民団の歴史より一部抜粋
また、祖国のセマウル運動に歩調をあわせて73年にセマウム運動を提唱し、祖国の山々に苗木を植えることを通して在日同胞60万人のセマウムシムキ運動に発展させ、祖国の150カ所の郷土集落とセマウル姉妹結縁に結びつけた。
75年7月には朝鮮総連傘下の同胞に母国を訪問させる省墓団事業を開始し、これによって民団と総連の人口比率が逆転することになった。
不思議なことに、植樹ボランティアを端緒に、お墓参りなどの母国訪問事業を充実発展させた結果、民団と総連の人口比率が見事に逆転しているんですね。
不法入国して永住許可を得た在日韓国人たちが、セマウム運動という植樹ボランティアで里帰りして家族に会い、日本に堂々と連れてくる。そのうち省墓団事業なども認められ、その枠が拡大して行く・・・
もしかしたら、実際は家族でない者を入国させる事例もあるのかも知れませんね。私はその辺りの事情を詳しく把握しているわけではありませんが・・・
ちなみに、この「セマウム運動」で里帰りに使われたのは、下関-釜山を結ぶ「関釜フェリー」です。こんなものを参考に紹介してみます。
第080回国会 法務委員会 第7号 昭和五十二年四月一日(金曜日)より一部抜粋
本年の集団不法入国事犯のうち、特異なものとしては、関釜フェリーを利用(通関済みのコンテナー搬送用車両の車軸の上に潜伏)した事案が、昭和四十五年回フェリー就航以来初めて検挙されたほか、日韓双方の密航ブローカーが緊密な連絡をとり、密航者を洋上で日本船に積みかえた上、自動車を利用して搬入した大がかりな組織的事案が二件検挙されている。すなわち、十月十日福岡県博多港において、対馬から入航した定期フェリーに積込まれたトラックに潜伏中の密航者三十三人が、また十一月十一日大阪市内において、福岡県苅田港から大型保冷車で搬入された密航者四十人がそれぞれ検挙されている。
となっております。
韓国からの密入国は「関釜フェリー」だけで行われているわけではないのでしょうが、確実にこれも利用されていることは分かると思います。
この「関釜フェリー」の社長は、瀬戸弘幸さんの大恩師である児玉誉士夫氏の側近中の側近、町井久之氏です。本名は鄭建永(チョン・ゴニョン)、「銀座の虎」、「雄牛」という通り名で呼ばれた人です。
民団の中央本部顧問であり、東声会(東亜会の前身)という反共団体(実質的に暴力団)の組長という人物でもあります。
朴政権が「セマウル運動」を開始する少し前「関釜フェリー」の事業認可を受けて社長に就任、「セマウル運動」開始直後には、民団の中央本部顧問に就任。ほどなく、「セマウル運動」と連携する形の「セマウム運動」が始まります。非常に良く出来たお話ですね。
「下関-釜山」ルートがつながり、韓国内は朴政権がセマウル号が「釜山-ソウル」ルートを中心に各地を鉄道網がつないでいるので「セマウム運動」に参加する在日同胞の方々は、その交通網を使ってボランティアにいそしんだわけです。
瀬戸弘幸さんたち民族派右翼有志の方々が「セマウム運動」と同行していたかどうかまでは定かではありませんが、少なくとも交通手段はほとんど同じものを使っていたと思われます。
ネトウヨの皆さんが『日韓海底トンネル構想に賛同する日本の政治家は売国奴だ!!』と騒いでいるのを良く見かけますが、瀬戸弘幸さんは、児玉誉士夫氏と町井久之氏がつるんで「関釜フェリー」を開通させたと重々承知の上で児玉門下生になってると思います。何も疑問を感じないんでしょうか?
せっかくなので、もう少しいじってみましょうか。本シリーズ第1回目の赤報隊襲撃事件に絡んで、瀬戸弘幸さんが義勇軍創設に関わっていたと手柄横取り発言をしている件について触れた時に紹介した記事内にこうあります。
『昭和56年頃、私は東京・東銀座の合同環衛ビルという所を事務所兼住まいとして、日本憂国会という名称で右翼活動をしていました。』
東京都中央区で検索したところ、現在は「合同環衛ビル」は存在しないようです。近所を探すと、お隣の台東区は浅草に「環衛商事有限会社」というのがありました。産廃業者のようです。
ですが、「環衛」で検索してみると、これが意外にも大量にヒット。どうやら産廃業者には割とありがちな名前だという事が分かりました。ところで、瀬戸弘幸さんも「環境と施設」という謎の雑誌を出版されていましたね。
興味深かったので少しだけ検索してみました。在日関係や右翼関係で、何故か産廃業者をやっている方や、それとつながっている方々が結構居られるようですね。今後、松沢呉一さん辺りが掘り下げて下さるかも知れません。
少し横道に逸れました。私は私らしい路線でもう少し踏み込んで行きたいと思います。
瀬戸弘幸さんは25歳の時(昭和52年頃?)にヤクザを右翼に誘ったと因縁をつけられて斬り合いになり、相手に重傷を負わせて、傷害と暴行の容疑で逮捕。即、実刑。共産党の市議に市議会で追求されて、市役所は懲戒免職になったんでしたよね?
実刑でどれ位の刑期を過ごされたかは存じ上げませんが、とりあえず1年程度と見ておきましょうか。
市役所を懲戒免職になったということは退職金はゼロ。25歳ですから元々ほとんどもらえなかったでしょうが・・・ 前科持ちで懲戒免職になった人は、なかなか通常の会社は雇ってくれませんから、どのように生計を立てて居られたのか気になるところですが・・・
兎に角、真っ当な収入があまりなかったはずの瀬戸弘幸さん(山本弘幸という名前で在日同胞の人たちをたくさん助けてお金を稼いだかも知れませんが・・・)、何故か娑婆に出て3年かそこらで東銀座に事務所を出すという異例の出世です。
それが丁度、「セマウル運動」への参加を始めた頃と重なるわけです。何故ボランティアに参加すると羽振りが急によろしくなるのか・・・
東銀座や築地界隈は、稲川会のシマなので松沢呉一さんが児玉誉士夫の人脈つながりで瀬戸弘幸さんを見て行く時にも、ついつい稲川会のラインで見てしまい勝ちになるのは分からないでもない気はします。そちらのラインも間違ってはいないのかも知れません。
ですが、熱心に「セマウル運動」に参加している瀬戸弘幸さんを見ていると、すぐお隣の銀座で牽制を誇っていらっしゃった猛牛(ファンソ)こと、町井久之氏の存在感の方に目が行ってしまう私です。
「セマウム運動」の第一人者、言いだしっぺとして名を刻んでいる尹隆道(ユンユンドウ)という人がいます。この人は、民団青年部の創生期を引っ張った草分け的存在のようですが、もうひとつ別の顔がありました。
大島渚監督の映画「絞死刑」という映画で、少年R役で出演していました。Wikipediaの紹介文を転載しておきます。
主人公の在日朝鮮人死刑囚"R"は強姦致死等の罪で絞首刑に処せられた。しかし信じられないことに絞縄にぶら下がったRの脈はいつまで経っても停止せず、処刑は失敗する。縄を解かれたRは刑務官たちの努力の末に漸く意識を取り戻すが、処刑の衝撃で記憶を失い心神喪失となっていた。刑事訴訟法により、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失状態にあるときには執行を停止しなければならない。刑務官たちは再執行のために彼に記憶と罪の意識を取り戻させようと躍起になるが、Rの無垢な問いかけは彼らの矛盾を鋭く抉ってゆく。忠実に再現したという死刑場を舞台に蜿蜒と続くやりとりは、死刑制度の原理的な問題から在日朝鮮人差別の問題、さらには貧困を背景とした犯罪心理にも及ぶ。
Rは1958年の小松川事件の犯人をモデルにしている。
小松川事件は在日少年に対する冤罪事件ではないかと当時色々言われたもののようです。興味がある人は検索してみて下さい。
尹隆道氏もまた、山本弘幸というペンネームで在日韓国人の冤罪を晴らそうとした瀬戸弘幸さんと同じ立場でもあったようです。尹隆道氏や彼に近い考えの民団関係の人が、山本弘幸名で書かれた「徐才喜冤罪事件」を目にしたら、さぞかし喜んで、民団内で話題にしたでしょうね。
そして、民団の中央本部顧問であり、「セマウル運動」や「セマウム運動」の根っこの部分を押さえてコントロールしていた町井久之氏の耳に入って、その人物が児玉誉士夫門下生だと分かったら、在日同胞と仲良くする事業を通じてフトコロを暖かくしてやろうって配慮してくれそうな気がするなぁ・・・
・・・と、この辺はワールドワイドウェブの勝手な想像です。具体的な証拠を突きつけて糾弾しているわけではありませんよ。
退職金ゼロの懲戒免職になった瀬戸弘幸さんが、3年やそこらでどうやって東銀座の事務所を借りられるほどリッチになったのか、支持者の方々に説明すればこんなバカ話はすぐに吹っ飛びます。ジョークで流せますよね?
さて、これ以降は冗談抜き。児玉門下生の瀬戸弘幸さんは、東銀座に事務所を構えていたんですから、すぐお隣の銀座で権勢を誇っていた児玉誉士夫の側近中の側近である町井久之氏の事は十分ご存知ですよね。
「セマウル運動」にせっせと参加なさっていたんですから、「関釜フェリー」の社長であることもご存知だったはずですし、民族派右翼が、日本側から「セマウル運動」に連帯しようとしたのと同じように、民団もまた「セマウム運動」という形で連帯しようとした事も知らなかったはずはないですね。
その結果として、「民団」が「総連」より力をつけたことも恐らく知っているはずです。それが日本国内における「反共」の闘いのために必要なことだと信じて助けてきたはずですし、積極的に関与しなかったと言い訳するにしても、少なくとも知っていながら見逃してきたはずです。密入国や、密入国者が堂々と家族を呼び寄せていることなどについて。
反共イデオロギーのために民団が力をつける事に力を貸してきた瀬戸弘幸さんたちが、そうした事実を隠して在日批判をしているのを見ると、つくづく汚いなぁと思います。批判するなら自分たちが何をしてきたのかまず正直に全部吐き出すべきです。
次回も「セマウム運動」についての指摘を続けます。
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