少し時間がかかってしまいましたが、今回から新シリーズに入ります。
調べ物をしているうちに、話がどんどん膨れ上がって来ているので全10回程度を予定していたのですが、収まりきらないかも知れません。
主題にしたかった話題のために色々調べ物をしてたら、余禄で瀬戸弘幸さんが発信してきたウソがボロボロと見つかったので、そのうちの1つを導入部に使ってみたいと思います。初回ですし、まずは軽めのジャブです。
せと弘幸Blog『日本よ何処へ』:初めて明かす義勇軍創設と私の立場より引用
この中で、赤報隊の事にも触れられていたが、ここではナント、捜査当局が最後に絞り上げた十人の「赤報隊容疑者」がイニシャルとは言え、従来の報道よりも詳しく紹介されていた。
「新右翼I会創設者で文化人のS」や「新右翼T軍初代議長で現在I会のK」に混じって、・・・・・・・・「新右翼T軍の創設にも関与したジャーナリストのS」がいる。
はてさて、誰だろう(笑)
この「新右翼T軍の創設にの関与したジャーナリストのS」とは、これは私のことです。今日はこのことに関して初めてブログで書くことにします。
昭和56年頃、私は東京・東銀座の合同環衛ビルという所を事務所兼住まいとして、日本憂国会という名称で右翼活動をしていました。
当時、私の元に皇心塾、一水会、北方領土奪還青年委員会の若い活動家が集まっていた。
当時の私もまだ29才の若さでした。我々は既成の右翼団体の枠にとらわれることなく、先鋭的な運動を行なうことで意見が一致して、団体の名称を統一戦線義勇軍とすることにした。
※この昭和56年頃から・・・・・名称を統一戦線義勇軍とすることにしたまでの文章を正確を記して下記のように訂正しておきます。
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昭和56年頃、私は東京・東銀座の合同環衛ビルという所を事務所兼住まいとして、日本憂国会という名称で右翼活動をしていました。
当時、私は皇心塾、一水会、北方領土奪還青年委員会などに所属する若い活動家と一緒に活動していましたが、そのような活動家が横断的に結合して出来たのが「統一戦線義勇軍」という組織でした。
資料「昭和59年1月・公安情報」を参照
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当時の私もまだ29才の若さでした。我々は既成の右翼団体の枠にとらわれることなく、先鋭的な運動を行なうことで意見が一致して、
本部事務所を当時私が住んでいたそのビルの6階に置き、我々はすぐさま全国の若手活動家に対して「分裂混迷の状況にある日本民族運動を再生する道は、文字通り烈火のような運動の実践の中にしかない」として檄を飛ばした。
東京都内においても電柱などに統一戦線義勇軍のビラを張り出し、活動を全国的に展開しようとしていた。その我々の呼びかけに応じるように全国から多くの人が訪れてくることになりました。
関西方面からも何人もの人がやって来ては、時間の過ぎるのも忘れて議論して、朝になってしまったことも度々でした。私は関西からやって来た人にも、我々の統一戦線に加わるように積極的に呼びかけていました。
この位で十分でしょうか・・・ いわゆる「赤報隊事件」の手柄横取り炸裂と、2ちゃんねる界隈でも瀬戸弘幸さんの記事を揶揄する批評が多かったのですが・・・
瀬戸弘幸さん界隈にも人気の阿修羅で、こんな記事を見つけてきました。
(資料:民族派団体一水会代表、鈴木邦男氏 反統一教会 論文 昭和六十年、1985年、朝日ジャーナル )
勝共連合は民族主義運動の敵だ ―文鮮明王朝建設に利用される日本の若者 より一部抜粋
われわれ、戦後体制打倒をめざす「一水会」の機関紙『レコンキスタ』(スペイン語で”失地回復”の意味)でも何度か原理についての批判をしてきたし、原理運動研究家の第一人者である茶本繁正氏を招いて一水会事務所で勉強会をしたこともある。その時のテーマは「勝共連合は愛国者なのか」であったし、彼らは民族派の味方ではないこともわれわれは明らかにした。
また、われわれの仲間には何人か原理にオルグられたり、「合宿」に誘われて行ったことのある人間もいる。二年前、そんな一人に「私はこうして”原理研”が治った」という体験談を話してもらい『レコンキスタ』に載せた。当時は「こうして新左翼が治った」「べ平連が治った」「アナキストが治った」といった体験シリーズをやっており、それら左翼運動と同次元で原理も考えていた。さらには、われわれ一水会と連帯している統一戦線義勇軍の機関紙『義勇軍報』でも原理・勝共との戦いを呼びかけており、事実、一水会や義勇軍は他の民族派と共闘して彼らとの闘いを展開していた。
小さいながらもこうした反原理・反勝共の闘いをやってきたが、これは右翼全般からは不評で、「思いつきでやってる」とか「勝共は仲間なのに」「敵を利する」などと批判された。しかし、大学時代からわれわれは彼らを一度も味方だと思ったことはないし、民族運動の同志だと思ったこともない。学生の時、早大で知ってた彼らは決して右翼ではなかったし、反共でもなかった。「天皇なんて関係ない。文鮮明師がすべてだ」「憲法なんてどうでもいいし、興味はない」と、正直にいっていた。われわれとは立場は違うが、宗教団体としてはそれも当然だろうと思っていた。ところが最近、急激に「右傾化」した。「天皇制を守り、憲法改正、スパイ防止法の制定を」と言っている。
統一教会・原理研と勝共連合は別だと言う言い訳は通じない。やっている人間は同じなのだ。なぜ、急に右旋回し、豹変したのか。その右旋回は本物なのかどうか。すっと疑問に思ってきた。最近の派手な言動に幻惑されて、即「味方だ」と思ってる右翼に同調できない理由もそこのある。そんな疑問に答えてくれたのが副島、井上両氏の『文春』のレポート「これが『統一教会』の秘部だ」だった。そして、『原理講論』をはじめて通読し、両氏の告発が嘘でも誇張でもないことを知った。
長いので一部抜粋にしましたが、全文読んでおくことをお勧めします。
瀬戸弘幸さんのお話と違って、彼ら「統一戦線義勇軍」は原理・勝共と闘う立場の民族派右翼さんだった模様です。明らかに話が矛盾していますね。
当時の右翼界隈の空気では、ロッキード事件発覚直後の児玉誉士夫氏に師事しただけでも勝共扱いされて仕方ない状況だったと思います。瀬戸弘幸さんは、思想信条も完璧に勝共でしたよね。
瀬戸弘幸さんが、ヤクザと日本刀で・・・という件も、詳細が明らかになったら、瀬戸弘幸さんらが勝共産な民族派右翼さんをオルグしようとしてトラブルを起こして刀傷沙汰になっただけ、という可能性も否定はできません。
今のところ、瀬戸弘幸さんが一方的に相手がタダのヤクザ者だったことにしているだけで、本当は勝共系以外の民族派右翼さんだっただけかも知れません。少なくとも、瀬戸弘幸さんが勝共だということは、ほぼ間違いない事実です。(次回、詳しく説明します。)
憶測だけで深く突っ込んで非難しても仕方ないので、こんなもんにしときます。あくまでさわりです。
私が今回のシリーズを書き起こすために当初調べていたのは、1980年前後に瀬戸弘幸さんが、どのような民族派右翼の方々とおつきあいしていたかという事です。
その頃、瀬戸弘幸さんは、日本の民族派右翼有志らで韓国の農村を近代化するための「セマウル運動」というものに参加していたと、『日本よ何処へ』で紹介していました。一体、どんな民族派右翼さんと御同行なさったのか知りたくて調べていた時にたまたま見つけたのが統一戦線義勇軍との関係についての矛盾です。
私は、このセマウル運動支援のエントリーにずっと違和感を感じていました。
前回シリーズで、松沢呉一さんが、瀬戸弘幸さんの行動理念はカネではないかという趣旨の批評をスッパリとされているのを見て、『児玉誉士夫氏がロッキード事件以上の利権を得たのは何だったろうか?』と考えていて、もう一度「セマウル運動」や、韓国の復興全般と民族派右翼の関わりなどを見直してみようと思い直しました。
すると、瀬戸弘幸さんが大量のウソを発信していること、都合の悪いことを必死に押し隠していること、ネトウヨ・嫌韓厨たちに詰め寄られたときに言いかけてやめてしまったことが多分あるらしいことが見えてきました。
冒頭に示した矛盾は、その際たるものの1つです。
まずは、瀬戸弘幸さんがかなり最近まで勝共であったことを、瀬戸弘幸さん自身のブログ内の発言を中心に明らかにします。今回は「セマウル運動」に関する瀬戸弘幸さんの主張から、それを読み解いて行こうと考えています。
おそらくですが、今の瀬戸弘幸さんが嫌韓厨のアイドルみたいなポジションに居るのは『ナノゼリー販売はもうやめたから、商品の説明はもうしない!!』というのと同じ宿題投げ出しです。
瀬戸弘幸さん本人の方が上手に答えられること、瀬戸弘幸さん本人でないと全く答えられないことが大量にありますから、第三者であるワールドワイドウェブが、宿題の肩代わりを完全にできるわけではありません。
私は、自分の能力に見合った範囲で分かる事実は明らかにし、分からない部分は、『瀬戸弘幸さんが誤魔化して逃げてますよ。でも、実際は答えを知ってるはずですよ。』と指摘して行くスタイルを取ろうと考えています。
次回から、「セマウル運動」の話題に入ります。
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