統一協会の御用聞きブロガーの瀬戸弘幸さん、ジャーナリストの執筆したものは、読者から評価される運命にあり、結果的に、執筆者の意向に関係なく、対立する複数勢力のうちの特定の側を支持する傾向にあると評価されることも珍しくないという事で宜しいんですね?
今後、瀬戸弘幸さんが他のブロガーさんを「○○の犬」と呼称し続けるなら、瀬戸弘幸さんを「チョンドファンの犬」とか「文鮮明の犬」と親しみを込めて呼ばせて戴いてもよろしいですね。
そもそも、ご自分がやられて嫌な事を他人にしてるわけではありませんよね? ジャーナリストを自称されている以上、正当な言論たるものと自負されてやっておられるのでしょうから、相手が同じことをした場合も、それが正当な言論だと認めなければなりませんよ。
とりあえず、福島市長選挙も無事に終わったことですし、私も少し具体的なお話などさせて戴こうと思います。私は瀬戸弘幸さんが脳梗塞だと言うなら退院まで待ちますし、ご親族だと私が考えている方が選挙なら、終わるまで踏み込んだ発言は控えますよ。卑怯なやり方は好きではないので。
会津藩の什の教えに『卑怯な振舞(ふるまい)をしてはなりませぬ』とあります。他にも『嘘言(うそ)をいう事はなりませぬ』や『弱い者をいぢめてはなりませぬ』なども瀬戸弘幸さんには是非とも守って戴きたい教えです。
では、本題に入りましょうか。
瀬戸弘幸さんが、ご自身のルーツについて語っているエントリーです。リンゴ栽培発祥の地は、以前も述べましたが瀬上です。瀬戸弘幸さんが昭和54年頃配布していた怪文書、「月刊ルポルタージュ」に記載されていたご住所は、調べてみたところ、瀬上小学校の西側でした。
1980年の住宅地図を見てみました。瀬戸という名字はいくらでも居ると仰っていたとおり、確かにこの辺りには瀬戸姓の方は多いですね。そして妙なことに瀬戸姓の方が多いこの土地を突っ切るように東北新幹線が・・・
東北新幹線の敷設ルートの決定には不透明なところがあったと何かで読んだ気がしたんですが、記憶違いだったでしょうか・・・ 用地買収や、騒音に対する補償などで、相当なお金が動いてるはずなんですよね。これは後で調べてみる価値がありそうです。
少し話がわき道に逸れますが、敷設ルートについて強く意見が言えそうな方々同士が、結構仲良しですよね。瀬戸孝一県議は、建設族議員の天野光春さんが政治家を志す前から親交があったと自伝に書かれています。
このご住所ですが、Google Mapだけでは良く分からなかったので、国土地理院の地図も併せて確認したところ、周辺は住宅の中に果樹の地図記号が沢山書かれていました。
瀬戸弘幸さんが、御実家の周辺についてご説明なさっているのと同じような風景が広がっているようです。
江戸時代から続いている農家で、本家と分家に別れて、分家が養蚕農家ですか。偶然、そういう来歴の瀬戸家を私は知っていますので、紹介します。
瀬戸孝一著 ごんけやん「半百の歩み」より抜粋
私は、大正八年六月二十五日に、父瀬戸栄五郎、母ツナの長男として信夫郡瀬上町字本町三十四番地に生まれた。勿論、これは戸籍上のことで、当時の風習として最初の子のお産は母方の実家ですることになっていたから、私も実際は信夫郡清水村大字御山字壁谷沢、白坂織之助宅で呱々の声をあげたのである。
私の家は、過去帳でみると瀬戸要吉(嘉永四年四月三日死去)を祖として、瀬戸良助(明治三十一年旧十二月十五日死去、七十七歳)→瀬戸榮之助(大正十二年一月二十六日死去、七十四歳)→瀬戸幸七(昭和六年四月十七日死去、七十三歳)→瀬戸榮五郎(昭和五十二年一月二十二日死去、八十三歳)そして私と続くのであるが、長寿の家系のようであった。
私の知っているのは曽祖父、栄之助からで、私が満四歳の時に死去しているが、祖父母に子供が無かったため、曽孫として生まれた私は、跡取り息子として一番だいじに可愛がって育てられた。
納戸の炬燵でよく「だっこ」されたことや、帳場にあった和紙で綴った大福帳に墨で落書きをしてよく叱られたこと、「煙管」を持って、うしろから曽祖父の頭をたたいては逃げ廻ったことが思い出として残っている。
曽祖父栄之助には二人の娘があったが、男の子がなかったので、姉「てる」には下飯坂の片平家(現戸主幸衛)から祖父 幸七を、妹「ぎん」には保坂の須賀家より、茂三郎を婿として迎え入籍した。
姉の「てる」(祖母)には夫幸七とのあいだに子供が無く、妹「ぎん」と茂三郎には七男四女の子供があった。
曽祖父栄之助は、姉より妹の方を可愛がったとかで、妹夫婦を新宅に出すときは財産を半々にして分家さしたと聞いている。
分家「ぎん」の長男、栄四郎は蚕物商として家を継ぎ、次男の栄五郎は請われて、本家幸七の養子として入籍した。これが私の父栄五郎であった。
瀬戸弘幸さんが仰るには、赤の他人だそうですので、登場人物の名前を仮名にする、伏字にする等の作業は一切していません。赤の他人の名前を、不必要にいじり回すのは不自然ですから。
自伝に進んで書かれたものですから、瀬戸孝一さんは広く世間の人に見られても問題ないものとして書かれていると思います。
それにしても、偶然の一致でしょうか・・・ 瀬戸弘幸さんから数えて5代目。一世代上の瀬戸孝一さんだと曽祖父栄之助さんの代で本家と分家が別れているからピッタリ同じ代ですね。
この本の血縁関係図によると、分家の栄四郎さんの跡を継いだのが洪亮さん。瀬戸孝一と瀬上小学校で同級生のいとこ同士でした。
瀬戸弘幸さんのご尊父も『日本よ何処へ』で折々触れられている年齢を逆算してみると、大正八年生まれの瀬戸孝一さんと同学年らしい事が分かります。
瀬上で、りんご栽培の普及活動の先頭に立っていたのが瀬戸孝一さんが理事を勤めていた、「瀬上町りんご技術研究協会」です。昭和二十二年発足。瀬戸弘幸さんは昭和二十七年生まれ。
瀬戸弘幸さんのご尊父は、リンゴ栽培技術を瀬戸孝一さん達と一緒に確立して行ったのではないんでしょうか?
養蚕業 - Wikipedia via kwout
養蚕農家についてGoogle検索すると、Wikipediaの農産業の項目がトップに出てきます。そこを見ると、瀬上地区などを含む信夫郡は日本屈指の養種産地だった事が分かります。
明治時代の富国強兵を支えた、日本の主力輸出品は生糸でした。外国に売って現金収入が得られたので、それで武器を買い、軍備を強化していたんですから、養蚕業に携わっていた瀬戸家には相当な現金収入があったはずです。
明治にはいると、養蚕景気をあてこんで信達地方には100以上の銀行が乱立し、日本銀行福島支店も設立された(福島支店は東北地方では初の日本銀行出先機関である)という位ですから、瀬戸弘幸さんの実家に石倉があるのは不思議ではないです。
江戸時代からルーツを辿れる時点で立派な家系であることが示唆されていますし、養蚕農家であり蚕物商であったのでしょう。それなりに裕福だったんじゃないでしょうか? 小作だったと言う説明は、虚言にしか見えないのですが。
私は、決して名字だけで瀬戸弘幸さんと瀬戸孝一さんを親類だと決めつけているわけではないのですが。出てくる資料や、瀬戸弘幸さんのご説明等から、ますます親類である可能性が高いと感じるようになっています。
瀬戸孝一著 ごんけやん「半百の歩み」より抜粋
瀬上宿は、福島と桑折の中間にある宿場町であった。宿駅の取締りは本陣の検断が行ったが、代官の監督下におかれた。瀬上には、木下領の陣屋があったが、小藩の飛び領であり、奉行塩見様が民政に殊に意を用いられた方で、その取締りも緩やかで、ある種の庇護を宿場に与えていた。旅籠屋・茶屋・花街の飯盛女は徴税の対象とされていたから特に藩の財政上そうした処置をとったのかも知れない。城下町の福島宿や、天領の桑折宿は取締が厳しかったから、瀬上宿は利用され易い宿場であった。
飯盛女は、遊女兼女中のようなもので、大半の者は売笑を行っていた。飯盛女は年季奉公で、前借金の額と年齢によって奉年限が契約されてつとめた。
記録によると、明治五年十月二日に人身売買禁止「芸娼妓解放令」が出されている。福島町では一三九人の飯盛女が解放されたとあるが、現実にはザル法であった。女たちの出身地は新潟県(浦原郡)、宮城県が多く、年齢も七歳(子守)から二十五歳まであり、十六歳から二十二歳までが多かった。これは、生活困窮からくる人身売買、年季奉公のためである。
飯盛女の出身職業別では、百姓の外士族の子女の数も多くみられ、武士階級の困窮も推測される。
年季奉公の制度は法的には禁止されたが、飯盛女ばかりでなく、普通の家庭にも年季奉公の師弟は男、女を問わずおり、戦前まで普通にみられた制度であった。私の家でも昭和の初め十二歳から二十一歳までの男、女四名が子守、女中、作男として年季奉公している。私を子守してくれた人は年季があけると、遊女となって瀬上遊郭で働いていた。
前述の「芸娼妓解放令」の出たあと、旅籠・茶屋・妓楼に飯盛女・娼妓をおく場合、貸座敷業の許可が必要となり、鑑札を交付するようになった。(営業許可証)
そして無鑑札営業を取締るため、同業者から監督世話人が選ばれ、県を通じ警部出張所(警察)から辞令が交付された。私の曽祖父名の辞令書を、父が死亡した時書類を整理して見たことがあった。
瀬上宿には明治二十六年の信夫郡統計書によると、八十四軒の営業許可証(貸座敷)を得た家があって娼妓・飯盛女の数は五百二十七名とあるから相当の数であった。
(中略)
明治三十五年(一九〇二年)奥州街道にあった花街は、風俗を乱すという理由から移転が命ぜられ、今まで宿場に散在しておった妓楼を、一ヶ所に集めて、営業するよう政令が発布され、瀬上花街は瀬上の東裡と言われた薬師前に移転することになった。
(中略)
私の家では、明治三十五年の新町移転前は貸屋敷業の鑑札を得て営業し、農地も多く持ち(七町歩)百姓と兼務であったが移転のとき鑑札を返納して廃業した。
(※Tomatotic-jellyさんが誤変換を見つけて下さったので直しておきました。今後とも宜しくお願いします。)
瀬戸家が遊郭の経営に携わった証拠は目にしてないと以前のエントリーでお話しましたが、ここだけはウソをついていました。
思いっきり、経営してますと自伝に書いていらっしゃるのを見ていたのですが、コレを紹介して良いものかどうか少し躊躇していたので・・・
以前のエントリーで紹介した石倉造りの建物などが並んでいる瀬上町遊郭は、明治三十五年に移転したもので、瀬戸家は移転時に遊郭からは手を引いたそうです。
年季奉公で子守をしてくれていた人が、年季明けで遊郭に・・・ 何だか現代人の私には受け止めにくいお話ですが、当時は割とこういう話はあったんでしょうね。
七町歩の百姓というのはピンと来ないでしょうから補足しておくと、東京ドームの1.5倍ほどの作付面積を所有する百姓だったということです。
富国強兵のための外貨獲得源であった養蚕業のメッカの信達地方は、極めて短期間で戊辰戦争後の復興がなされました。会津藩は1年近く藩士の亡骸を埋葬どころか移動すら許されず野ざらし。片や、コチラは2年くらいで復興し、更に銀行はどんどん建つ。
同じ福島県とは言っても、廃藩置県で1つになっただけで、会津とは全く状況が違いますね。
東北は全体的には明治政府に逆らった土地として冷遇されましたから、産業などのテコ入れがあまりされていませんでした。そのため貧困に喘ぐ農民や士族の子弟が身売り同然の年季奉公に出される。
雇用者側から見れば、安い労働力が安定供給されます。東北は、農業以外の自活手段が乏しいために、不利な条件の小作農を受け入れる者が多かったので、地主に有利だったという事も、以前紹介しました。
冷遇され続ける東北にあって、ごく限られた土地だけが富国強兵の国是国策に乗って重点的に厚遇を与えられていれば、安い労働力を獲得しながら、高く買ってもらえる生産物を作れるんですね。
更に、安く獲得した労働者が年季明けには遊郭へ。それも管理して、しっかり利益を上げる。そういう事が可能な時代だったんですね。
で、そんな素晴らしい追い風に乗っていたのが当時の瀬戸家ではないのですか? 不遇に晒された会津藩を引き合いに出して、自分は東北人の苦しみを理解する代表者だというようなエントリーを立てる瀬戸弘幸さんの神経が私には理解出来ません。
他方、瀬戸孝一さんは、世間の批評に晒されるリスクは十分予想したでしょうに、瀬戸家が歩んできた歴史の一端を正直に書き綴っておられます。
自分たちの過去と向き合うことは、なかなか大変な作業です。これには一定の評価をしなければならないと思います。
瀬戸弘幸さんも、そろそろ貯めに貯めた宿題と向き合った方が良い頃合いではないでしょうか?