拝啓 瀬戸弘幸 殿

平成21年10月10日、徐才喜冤罪事件の取材記録が瀬戸家の石倉から出てきたとの喜ばしい報告を下さってから、早いもので8ヶ月が経過しました。

地裁の判決文全文(特に公印は必須)と、新聞が大きく報じたという、徐才喜さんの逮捕の記事の公表はまだでしょうか?

>>全文はコチラ
2010年4月3日土曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その26)

瀬戸弘幸さんは相変わらずのダンマリを決め込んでいらっしゃるようです。決定的な証拠をお持ちだと自慢気に宣言してからもうすぐ半年経過しようとしていますが、一向に手元にあるという資料をまともに公開されるご様子がありませんね。

御自身の名誉が不当に傷つけられたと主張し、手元にその状況を覆す決定打になる素晴らしい資料を持っていると高らかに宣言なさったのに、どうして尻尾を巻いて逃げるような態度なのか、私には全く理解できません。私に対する苦情は全て勘違いでした、引っ込めますと言っているのでしょうか。

だったら、勘違いで私に対して投げかけた罵詈雑言については、きちんと撤回した上で、失礼しましたくらいのお詫び発言くらいはして戴きたいものです。訴える気もないのに訴えるぞと脅しをかけるような態度を取っているのではないかと、事の成り行きを見ている人たちに誤解されますよ。

瀬戸弘幸さんは、元地主階級でなければ所有していないであろう石倉のあるご実家に一級品の資料がたっぷりある。その資料を第三者にも適正に確認可能な状態で提示するのか、提示を断念して、自分のこれまでの主張は全面的に引っ込めるのか、どちらか態度を明確にして下さい。

どちらか対応方法をハッキリ決めるまでは、つきあい切れないので、デタラメな発言を大量に発信しまくる程度の反応しかされないようなら、私から満足の行く返事は出来かねますので、瀬戸弘幸さんは、予めご了承下さいね。

今回も、例の如く前回予告とは違う内容です。ソチラも下書きは済ませていますが、まずは、徐才喜冤罪事件を一区切りつけておこうと思います。


では、かなり長期間停滞させていた検証をボチボチと再開させて行きます。この停滞期間中に、瀬戸弘幸さんが色々と興味深い発言をしている事にも気づき、有り難いな… と、正直とても感謝しています。





成田空港建設反対運動のリーダー、戸村一作氏が日本赤軍のハイジャックを支持する発言を聞いて、「鳥肌が立つほどの衝撃を受け」て同氏の事が好きになったという瀬戸弘幸さん。他方、『福島市太田町婦人殺人事件』の被害者、福島市の元校長、遠藤文子さんは、日本赤軍のドバイハイジャック事件から生還し、市内で講演を開いたりしていました。

瀬戸弘幸さんと遠藤文子さんの関係は、『ハイジャック肯定者を鳥肌が立つほどの衝撃を受けて支持する若者』と『ハイジャックから生還した恐怖の体験を市民に伝える元校長』という事になります。

遠藤文子さん殺害は昭和51年10月20日。瀬戸弘幸さんは、福島市職員の身分で日本刀でヤクザ者と傷害事件を起こして9ヶ月の拘留を受けた事件は、恐らく昭和52年の春先。出所したのは同年の暮れか、明けて昭和53年の初春頃。「政経東北」の6月号から「徐才喜冤罪事件」が掲載されます。

ハイジャックを非難する講演会を開いていた、元校長の女性が殺害される事件が発生。その数ヵ月後、日本刀でヤクザ者と傷害事件を起こして入獄する若者が、鳥肌が立つ程のハイジャック肯定者で、出所後も実在すら疑わしい在日韓国人が冤罪で警察に吊るし上げられたというフカシ記事としか思えないようなものを書いています。

当時、遠藤文子さん殺しの容疑者すら絞り込みきれずに居た福島県警が、こんな若者の存在を知ったらどのように対応したかは想像に難くありません。

瀬戸弘幸さんは、すぐに誤解してしまうので一応言っておきますが、これは瀬戸弘幸さんが人殺しだと決めつけるものではありません。ただ、当時、真剣に犯人を探していた警察がこれだけの情報を知ったら、瀬戸弘幸さんに懇切丁寧に事情を伺いたかっただろうなと思うという事です。

本当に、徐才喜さんは太田町に住んでいらっしゃたのでしょうか。出所したばかりで太田町婦人殺人事件の捜査陣は、瀬戸弘幸さんを逮捕した福島県警です。モロに面が割れているのにご近所の方々にどうやって聞き込みをしたのですか?

県警さんに顔を見られないように覆面でも被り、身分も本名も必死に隠して聞き込みをしたとでも仰るのでしょうか… そんな事をすれば、3日もかからずに怪しい人物がうろついているという情報が捜査陣の間で飛び交うでしょう。

どのようにして、出所したばかりで面割れ必至の瀬戸弘幸さんが太田町で取材できたのかキチンと説明して下さい。こういう事については、証拠を出せなどとは言いません。納得が行く手法を取っている事さえ分かれば十分です。

非常に簡単な質問に瀬戸弘幸さんは全く答えていないから、周囲の不信感が増大して行くのではないでしょうか。



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2010年2月16日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その25)

ご無沙汰しています。少し体調を崩していたので静養していました。その間、これまでに集めた資料を読み返して整理する時間に充てさせて戴きました。

勢いで記事を書いても良いのですが、資料を何度か読み込んで行くうちに新たに気づいたことも幾つかあって、本題については、どの時点で書き出すか少し検討中です。踏み込んだ話題は次回ぐらいからにします。

さて、瀬戸家の石倉から裁判資料が発見されたという報告から4ヶ月以上が経過したのですが、瀬戸弘幸さんは一向にまともな報告をする気配がありません。

福島地裁の公印がない、公的資料であるとは到底信じられない紙きれをもって、自分の名誉が十分に回復されたと仰るのですか?

裁判の時程についても、被告の徐才喜さんという方が自身に課せられた嫌疑を晴らそうと裁判で検察と争っていたら、そんなに短期間で判決は出ないでしょう。

瀬戸弘幸さんの主張には、時程的に相当な疑問があります。それを多少なりとも解消するには裁判資料や新聞の切り抜き等、手元の資料を出して戴くしかないとお伝えしているにも関わらず、全くそれを開示しようとしません。これでは、議論の相手である私だけでなく、見守っている第三者からも全く瀬戸弘幸さんの主張の正当性は確認できません。

何が不十分か再三お伝えしたのですが、瀬戸弘幸さんは日本語が不自由になったかのように、とても簡単な話を理解できない人のような反応を繰り返し、勝利宣言めいた発言をして尻尾を巻いて逃げ出して、それっきりです。

日本人ならば簡単な日本語のやり取り位は出来る人になりましょうね。(※瀬戸弘幸さんが日本人ではないと言っているわけではないですよ。変なところでキレたフリして話題逸らしするのはナシでお願いしますね。)

少し話題が変わりますが、「○○の犬」発言を喜んで使うようなら、瀬戸弘幸さんが同じように呼称されても文句が言えないことを前回申し上げておきました。しばらくは自制しておられたようにお見受けしていましたが、また同じ事を繰り返していますね。

昨年の暮れまでに割と資料集めは進んでいて、それなりに整理も済ませています。その中で、瀬戸弘幸さんの愛称をどうするか考えさせられるものも色々見つけていますので、少し触れてみたいと思います。

現在の統一戦線義勇軍議長、針谷大輔氏と最近も揉めていたようですね。統一戦線義勇軍の名付け親は瀬戸弘幸さんではないと発言しておられました。

一水会の機関紙、RECONQUISTA第1~100号までを1冊にまとめた本を読みました。瀬戸弘幸さんが積極的に共闘していたのは、反ソ義勇軍の時ですね。針谷氏の説明と一致するようです。

もっと興味深い記事が第60号(昭和55年11月1日)の中にありました。瀬戸弘幸さんとネオナチ本を共著した篠原節氏の、民族思想研究会という団体が十周年記念パーティーを開催したという記事です。

来賓として祝辞を述べた人の中には、青年思想研究会の議長、高橋正義氏が居ます。更に、来賓の祝辞に続いて、最高顧問として、日の丸青年隊総裁の高橋信義氏が、篠原会長の略歴紹介と現在の活動報告。来賓も最高顧問も凄い顔ぶれです。

少し補足しておきます。日の丸青年隊、青年思想研究会、どちらもトップは児玉誉士夫氏。日の丸青年隊の常任諮問委員に、銀座の猛牛(ファンソ)、町井久幸氏。

瀬戸弘幸さんが24歳(昭和52年)の頃に加入したという民族思想研究会のバックには、白河高原の大規模買収をしていた児玉誉士夫氏や町井久幸氏が居たんですね。



篠原節氏は長年、テコンドーの普及に尽力なさっている方としても有名ですよね。え~っと、テコンドーは空手の原型だったんですか? テコンドーの方が圧倒的に世界に広まってる… で、テコンドーを始めたのは児玉誉士夫の右腕といわれた高橋信義…

ネット上で拾えたのは1P目だけでしたが、これだけでも結構すごいですね。マンガ嫌韓流の作者さんが見たら、アゴが外れてしまうでしょう。桜井誠さんは、こういう宣伝をする篠原節氏の事をどう評価するでしょうね?

青年思想研究会の高橋正義氏は、児玉誉士夫氏の不正を最も早い時期から指摘していた某作家の作品を、出版直前に不当に差し押さえようとしてトラブルを起こしています。

この作家は、この弾圧に負けずに更なる調査や取材を続け、白河高原の買収問題を最も早い時期に紹介する事になった書籍を出版しました。次回以降で、この辺りを紹介して行こうと思います。

高橋義人、正義、信義の3兄弟が、歴代の組長を務めた義人党は、韓国系暴力団です。そして、この義人党は平成3年に、パチンコ換金所の利権を警察官OBが掠め取る仕組みを亀井静香氏が作ったことに猛反発して大量の街宣車などを出して抗議、結局解散に追い込まれました。(その後、解散した組は復活してますが・・・)

瀬戸弘幸さんは、それ位の事は知らないはずがないでしょう。今回もまともな根拠がないまま全部デタラメだとキレて憤慨しますか? 『日本よ何処へ』によれば、平成17年頃までは夫婦揃ってパチンコを楽しんでおられたようです。パチンコを嫌いになった理由は、あまり勝てなくてムカついたからという幼稚な理由を並べていましたが、到底信じられません。

平成元年の時点で既に、週刊新潮が当時運輸大臣だった亀井静香氏とコスモポリタン池田会長との間で「亀井代議士が借金五億円」という見出しの記事を書いています。

パチンコと亀井静香氏の問題は、かなり早い時期から表面化してますし、亀井静香氏と在日韓国人暴力団がパチンコ換金所利権を朝鮮人と警察OBで取り合って大騒ぎまで起こしています。それらについても全く知らなかったとか仰るんですか?

瀬戸弘幸さんの加入団体の上位組織の方々が起こしたトラブルなのに知らぬ存ぜぬでは説明がつかないと思うのですが・・・ それで貫き通すとなれば、瀬戸弘幸さんは、凄まじい情報弱者だと自己アピールしまくる必要が出て来ることになるでしょうね。

瀬戸弘幸さんが『赤報隊』と『日本民族独立義勇軍』についての連載を書いている中で、週刊新潮の記事を取り上げていて、そこで木村久著『疑惑人らがつくった関西国際空港』が引用されていました。

本シリーズの開始時には、その辺りから切り込んで行ったのですが、当時は読めた同書の該当部分のスキャン画像が見られなくなっていたので、図書館から借りて来ました。

借りた当初は、この部分だけ読み直せば十分だと思ったのですが、もう少し後ろの章を読み進めると、亀井静香氏についての疑惑が結構乗っていました。先ほど触れた件も、そこから拾ったものです。もう少し続けましょうか…

平成元年あたりから雑誌で叩かれ始めていたというところまでは良しとして、平成6年10月11日と17日に、公明党の衆参2人の議員が、衆参両議院の予算委員会で時の運輸大臣、亀井静香を激しく追及した。

大阪の仕手集団「コスモポリタン」との関係と多額の金銭授受の問題で、同運輸相は、これらの追及には「私は関知しない」と逃げたが、周囲はそうはいかなかった。「五千万円を直接手渡した」といった証言者も現れ、同運輸省を窮地に追い込んでいった。

これは、朝木明代さんが東村山で転落死される約1年前ですね。

「大和銀行衆院支店の亀井静香口座にコスモポリタンから十三億四千万円の多額の金が振り込まれている」と指摘されても「私には関係ない金」と突っぱねていた・NHKテレビの国会中継で、この追求の場面が放映され、視聴者へ問題と疑惑が提供された。そして、追求を否定したことで、余計に疑惑を与える結果となっている。とも書いてあります。

この辺りを踏まえて、国会の議事録を検索してみると、この本に書いてある事はあながち嘘ではないと分かります。

普通に新聞、雑誌、国会中継などから嗅ぎ取れるレベルの情報を丁寧にまとめてくれているだけのようですから、公明党や亀井静香氏に強い関心を持っている方なら、この本を読んでいなかったとしても、極度に無能だとか、口先だけのデタラメな批判者だとかいう事でもない限り、これらの事実を1つも拾えなかったとは言わないでしょう・・・

また、本気でパチンコ批判する気があるなら、パチンコ機の製造メーカーやパチンコ業者の批判だけで済むはずがありません。業界の発展反映のために肖像権や著作権を提供している方々に対する批判のひとつも出て来そうなものですが、皆無ですね。

CR機になっている宇宙戦艦ヤマトが大好きだとアピールしてカレンダー売りに必死になったり、同じく渡り鳥シリーズがCR機になっている小林旭さんのステージ衣装をもらった事が自慢で、それを着て街宣活動したり・・・ 頭がおかしいんじゃないですか?

版権が高ければ10億円になると言われるパチンコ・パチスロ機にするのをお断りしている、ドラゴンボールの鳥山明氏のような人を褒めるくらいの事をしてもバチは当たらないと思いますが、そんな事をしたら、業界からお金をもらっている他の方々の立場がなくなってしまいますか?

「大ヤマト」で検索してみて下さい。三共という会社と、松本零士氏がタイアップして作ったのですが、版権を巡って裁判になって東北新社に2億5千万円が支払われています。瀬戸弘幸さんがパチンコから足を洗うより前、まだ韓国でもパチンコ(に似たもの)が禁止される前で、大ヤマトをベースにした機種が同国で愉しまれていました。

瀬戸弘幸さんが年末年始にカレンダーを売ろうと必死になった「宇宙戦艦ヤマト」の松本零士氏と東北新社は、CR機でガッチリ!ですね。しかも最初は松本零士氏だけが著作権を戴くために「大ヤマト」という名前で出したのに裁判で争うことに…

年末年始は、原作者や会社を褒めちぎりまくってカレンダーを売り切って儲けようとしていましたね。今も売れ残りを処分しようと、たまに売りますって記事を出してますよね。

パチンコ・パチスロに反対する立場なんですから、ヤマト関連の商品を売って自分のポッケに稼ぎを入れる前に、原作者たちに言うべき事は何もないんですか?

宇宙戦艦ヤマトに限った話ではありません。本気でパチンコ・パチスロを根絶するお気持ちなら、今後は肖像権や著作権で何億円も業界から戴いている方々に、姿勢を改めるような啓蒙活動をなさっては如何でしょうか?

一応、誤解がないよう言っておきますが、大好きな俳優・女優やアニメの原作者を脅せと言っているわけではありません。脅すような形にならないように十分配慮しながら、大好きな方々がパチ業界に変に依存しない方法で正当な報酬を得られる道筋をつけられるよう応援してあげたらどうでしょうか?

もう一点、気になっている事があります。一水会の機関紙、RECONQUISTAは、ミニ新聞のような形態をとっていますが後年になるにつれ、中身にヌード写真・イラスト・記事が多くなっていきました。そういう新聞に篠原節氏は記事をちょくちょく載せてもらっています。瀬戸弘幸さんも、昭和56年には活動内容を頻繁に紹介してもらっていますね。

毎日新聞の英語版に捏造エロ記事が載っていた件をもって、毎日新聞全体を潰そうとなさっている瀬戸弘幸さんですが、新右翼の活動を紹介する新聞の中身はエロまみれなんですけど…

しかも、一水会側が勝手に瀬戸弘幸さん達の活動が紹介したわけではないですね? 師匠の篠原節氏は自らそこに記事をドンドン投稿していますし、瀬戸弘幸さんも、彼らと共に街宣等をして同紙でそれを紹介してもらっています。

エロ記事を書いたヤツを罰しろと言うのではなく、新聞社ごと全て潰してしまえというのが瀬戸弘幸さん達の主張ですよね? 配布規模の大小はありますが、毎日新聞と同罪、質的には圧倒的に粗悪と言えるでしょう。

エロ記事が多い新聞に関与したのが汚点という論法を展開して良いのなら、他人を批判する資格のない薄汚れた人物だと言われても仕方がないでしょうね。

気をつけて英語版を読まないとエロ記事がある事に気づかないのに毎日新聞。それなのに会社自体を潰せと主張するのですから、「そんなエロ記事の存在すら知らなかったよ」と思っている大半の社員はどんな気持ちでしょうね。

毎日新聞社には責任があります。再発防止は徹底して戴く必要はもちろんあります。新聞社を潰してしまえと言えるレベルには到底達してないとも思いますけど…

それに対して、バッチリ日本語で書かれ、時にはヌード写真やイラストもバンバン載せている新聞に自分たちの記事を載せてもらっていた篠原節氏や瀬戸弘幸さん。気づかなかったなんて言い訳の余地はゼロです。

RECONQUISTAは、一般家庭に配布している新聞と同列に扱えないとか言い訳し出したら、毎日新聞社の英語版WaiWaiとやらも、紙媒体で新聞受けに入れるものではないですしね。

ネット上でエロ情報を… とか言い出したら、エロ情報を氾濫させている方々はそれなりに覚悟して戴く必要があるんじゃないでしょうか。

英語版WaiWaiに書いてある記事のエロなフレーズを日本語訳にして書き写し、サンドイッチマンとなって、その画像をネット上に蔓延させている変態さんとか。変態情報の拡散を抑制する運動ではなく、明らかに喜んでそれを広める運動をなさっています。

結局のところ、わめき散らしている方々の変態っぷりが一番目立っています。変態新聞の反省を促すとかいうレベルではありませんね。

さて、瀬戸弘幸さんは、この先、何の犬と呼ばれるんでしょうか。どんな愛称がついても不思議はない気がしますが…

【訂正&追記】
今日になって気づいたのですが、投稿日が年末になっていました。実際の投稿日に訂正しておきます。

瀬戸弘幸さんのブログ『日本よ何処へ』では、パチンコ絡みの話題が割と人気が高いのか、本記事にならなくても3~4日に1度はコメント欄に何らかの話題が出てくるのが普通です。

ところが、Google検索した範囲では、2010年2月12日 - パチンコ屋に貢いで家族崩壊・・・ という話題が出て以降、プッツリと途切れているようです。もう10日以上も話題が出ていません。

気になって、ここ1年間の投稿状況を遡って検索してみましたが、パチンコの話題が全く出ない期間というのは、せいぜい6日間程度。

私が軽くパチンコの話題に触れてからのカウントとしても、今回の追記を書いている2月23日の時点で、既に約1週間が経過。いつまでも、この話題を避け続けるのも不自然でしょうに・・・

あんなに大好きだったパチンコ批判が、急に都合の悪い話題にでもなってしまったのでしょうか?



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2009年11月17日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その24)

統一協会の御用聞きブロガーの瀬戸弘幸さん、ジャーナリストの執筆したものは、読者から評価される運命にあり、結果的に、執筆者の意向に関係なく、対立する複数勢力のうちの特定の側を支持する傾向にあると評価されることも珍しくないという事で宜しいんですね?

今後、瀬戸弘幸さんが他のブロガーさんを「○○の犬」と呼称し続けるなら、瀬戸弘幸さんを「チョンドファンの犬」とか「文鮮明の犬」と親しみを込めて呼ばせて戴いてもよろしいですね。

そもそも、ご自分がやられて嫌な事を他人にしてるわけではありませんよね? ジャーナリストを自称されている以上、正当な言論たるものと自負されてやっておられるのでしょうから、相手が同じことをした場合も、それが正当な言論だと認めなければなりませんよ。

とりあえず、福島市長選挙も無事に終わったことですし、私も少し具体的なお話などさせて戴こうと思います。私は瀬戸弘幸さんが脳梗塞だと言うなら退院まで待ちますし、ご親族だと私が考えている方が選挙なら、終わるまで踏み込んだ発言は控えますよ。卑怯なやり方は好きではないので。

会津藩の什の教えに『卑怯な振舞(ふるまい)をしてはなりませぬ』とあります。他にも『嘘言(うそ)をいう事はなりませぬ』や『弱い者をいぢめてはなりませぬ』なども瀬戸弘幸さんには是非とも守って戴きたい教えです。

では、本題に入りましょうか。



瀬戸弘幸さんが、ご自身のルーツについて語っているエントリーです。リンゴ栽培発祥の地は、以前も述べましたが瀬上です。瀬戸弘幸さんが昭和54年頃配布していた怪文書、「月刊ルポルタージュ」に記載されていたご住所は、調べてみたところ、瀬上小学校の西側でした。

1980年の住宅地図を見てみました。瀬戸という名字はいくらでも居ると仰っていたとおり、確かにこの辺りには瀬戸姓の方は多いですね。そして妙なことに瀬戸姓の方が多いこの土地を突っ切るように東北新幹線が・・・

東北新幹線の敷設ルートの決定には不透明なところがあったと何かで読んだ気がしたんですが、記憶違いだったでしょうか・・・ 用地買収や、騒音に対する補償などで、相当なお金が動いてるはずなんですよね。これは後で調べてみる価値がありそうです。

少し話がわき道に逸れますが、敷設ルートについて強く意見が言えそうな方々同士が、結構仲良しですよね。瀬戸孝一県議は、建設族議員の天野光春さんが政治家を志す前から親交があったと自伝に書かれています。

このご住所ですが、Google Mapだけでは良く分からなかったので、国土地理院の地図も併せて確認したところ、周辺は住宅の中に果樹の地図記号が沢山書かれていました。

瀬戸弘幸さんが、御実家の周辺についてご説明なさっているのと同じような風景が広がっているようです。

江戸時代から続いている農家で、本家と分家に別れて、分家が養蚕農家ですか。偶然、そういう来歴の瀬戸家を私は知っていますので、紹介します。 

瀬戸孝一著 ごんけやん「半百の歩み」より抜粋
 私は、大正八年六月二十五日に、父瀬戸栄五郎、母ツナの長男として信夫郡瀬上町字本町三十四番地に生まれた。勿論、これは戸籍上のことで、当時の風習として最初の子のお産は母方の実家ですることになっていたから、私も実際は信夫郡清水村大字御山字壁谷沢、白坂織之助宅で呱々の声をあげたのである。
 私の家は、過去帳でみると瀬戸要吉(嘉永四年四月三日死去)を祖として、瀬戸良助(明治三十一年旧十二月十五日死去、七十七歳)→瀬戸榮之助(大正十二年一月二十六日死去、七十四歳)→瀬戸幸七(昭和六年四月十七日死去、七十三歳)→瀬戸榮五郎(昭和五十二年一月二十二日死去、八十三歳)そして私と続くのであるが、長寿の家系のようであった。
 私の知っているのは曽祖父、栄之助からで、私が満四歳の時に死去しているが、祖父母に子供が無かったため、曽孫として生まれた私は、跡取り息子として一番だいじに可愛がって育てられた。
 納戸の炬燵でよく「だっこ」されたことや、帳場にあった和紙で綴った大福帳に墨で落書きをしてよく叱られたこと、「煙管」を持って、うしろから曽祖父の頭をたたいては逃げ廻ったことが思い出として残っている。

 曽祖父栄之助には二人の娘があったが、男の子がなかったので、姉「てる」には下飯坂の片平家(現戸主幸衛)から祖父 幸七を、妹「ぎん」には保坂の須賀家より、茂三郎を婿として迎え入籍した。
 姉の「てる」(祖母)には夫幸七とのあいだに子供が無く、妹「ぎん」と茂三郎には七男四女の子供があった。
 
 曽祖父栄之助は、姉より妹の方を可愛がったとかで、妹夫婦を新宅に出すときは財産を半々にして分家さしたと聞いている。
 分家「ぎん」の長男、栄四郎は蚕物商として家を継ぎ、次男の栄五郎は請われて、本家幸七の養子として入籍した。これが私の父栄五郎であった。

瀬戸弘幸さんが仰るには、赤の他人だそうですので、登場人物の名前を仮名にする、伏字にする等の作業は一切していません。赤の他人の名前を、不必要にいじり回すのは不自然ですから。

自伝に進んで書かれたものですから、瀬戸孝一さんは広く世間の人に見られても問題ないものとして書かれていると思います。

それにしても、偶然の一致でしょうか・・・ 瀬戸弘幸さんから数えて5代目。一世代上の瀬戸孝一さんだと曽祖父栄之助さんの代で本家と分家が別れているからピッタリ同じ代ですね。

この本の血縁関係図によると、分家の栄四郎さんの跡を継いだのが洪亮さん。瀬戸孝一と瀬上小学校で同級生のいとこ同士でした。

瀬戸弘幸さんのご尊父も『日本よ何処へ』で折々触れられている年齢を逆算してみると、大正八年生まれの瀬戸孝一さんと同学年らしい事が分かります。

瀬上で、りんご栽培の普及活動の先頭に立っていたのが瀬戸孝一さんが理事を勤めていた、「瀬上町りんご技術研究協会」です。昭和二十二年発足。瀬戸弘幸さんは昭和二十七年生まれ。

瀬戸弘幸さんのご尊父は、リンゴ栽培技術を瀬戸孝一さん達と一緒に確立して行ったのではないんでしょうか?


養蚕農家についてGoogle検索すると、Wikipediaの農産業の項目がトップに出てきます。そこを見ると、瀬上地区などを含む信夫郡は日本屈指の養種産地だった事が分かります。

明治時代の富国強兵を支えた、日本の主力輸出品は生糸でした。外国に売って現金収入が得られたので、それで武器を買い、軍備を強化していたんですから、養蚕業に携わっていた瀬戸家には相当な現金収入があったはずです。

明治にはいると、養蚕景気をあてこんで信達地方には100以上の銀行が乱立し、日本銀行福島支店も設立された(福島支店は東北地方では初の日本銀行出先機関である)という位ですから、瀬戸弘幸さんの実家に石倉があるのは不思議ではないです。

江戸時代からルーツを辿れる時点で立派な家系であることが示唆されていますし、養蚕農家であり蚕物商であったのでしょう。それなりに裕福だったんじゃないでしょうか? 小作だったと言う説明は、虚言にしか見えないのですが。

私は、決して名字だけで瀬戸弘幸さんと瀬戸孝一さんを親類だと決めつけているわけではないのですが。出てくる資料や、瀬戸弘幸さんのご説明等から、ますます親類である可能性が高いと感じるようになっています。

瀬戸孝一著 ごんけやん「半百の歩み」より抜粋
 瀬上宿は、福島と桑折の中間にある宿場町であった。宿駅の取締りは本陣の検断が行ったが、代官の監督下におかれた。瀬上には、木下領の陣屋があったが、小藩の飛び領であり、奉行塩見様が民政に殊に意を用いられた方で、その取締りも緩やかで、ある種の庇護を宿場に与えていた。旅籠屋・茶屋・花街の飯盛女は徴税の対象とされていたから特に藩の財政上そうした処置をとったのかも知れない。城下町の福島宿や、天領の桑折宿は取締が厳しかったから、瀬上宿は利用され易い宿場であった。
 飯盛女は、遊女兼女中のようなもので、大半の者は売笑を行っていた。飯盛女は年季奉公で、前借金の額と年齢によって奉年限が契約されてつとめた。
 記録によると、明治五年十月二日に人身売買禁止「芸娼妓解放令」が出されている。福島町では一三九人の飯盛女が解放されたとあるが、現実にはザル法であった。女たちの出身地は新潟県(浦原郡)、宮城県が多く、年齢も七歳(子守)から二十五歳まであり、十六歳から二十二歳までが多かった。これは、生活困窮からくる人身売買、年季奉公のためである。
 飯盛女の出身職業別では、百姓の外士族の子女の数も多くみられ、武士階級の困窮も推測される。
 年季奉公の制度は法的には禁止されたが、飯盛女ばかりでなく、普通の家庭にも年季奉公の師弟は男、女を問わずおり、戦前まで普通にみられた制度であった。私の家でも昭和の初め十二歳から二十一歳までの男、女四名が子守、女中、作男として年季奉公している。私を子守してくれた人は年季があけると、遊女となって瀬上遊郭で働いていた。
 前述の「芸娼妓解放令」の出たあと、旅籠・茶屋・妓楼に飯盛女・娼妓をおく場合、貸座敷業の許可が必要となり、鑑札を交付するようになった。(営業許可証)
 そして無鑑札営業を取締るため、同業者から監督世話人が選ばれ、県を通じ警部出張所(警察)から辞令が交付された。私の曽祖父名の辞令書を、父が死亡した時書類を整理して見たことがあった。
 瀬上宿には明治二十六年の信夫郡統計書によると、八十四軒の営業許可証(貸座敷)を得た家があって娼妓・飯盛女の数は五百二十七名とあるから相当の数であった。

(中略)

明治三十五年(一九〇二年)奥州街道にあった花街は、風俗を乱すという理由から移転が命ぜられ、今まで宿場に散在しておった妓楼を、一ヶ所に集めて、営業するよう政令が発布され、瀬上花街は瀬上の東裡と言われた薬師前に移転することになった。

(中略)

私の家では、明治三十五年の新町移転前は貸屋敷業の鑑札を得て営業し、農地も多く持ち(七町歩)百姓と兼務であったが移転のとき鑑札を返納して廃業した。

(※Tomatotic-jellyさんが誤変換を見つけて下さったので直しておきました。今後とも宜しくお願いします。)

瀬戸家が遊郭の経営に携わった証拠は目にしてないと以前のエントリーでお話しましたが、ここだけはウソをついていました。

思いっきり、経営してますと自伝に書いていらっしゃるのを見ていたのですが、コレを紹介して良いものかどうか少し躊躇していたので・・・

以前のエントリーで紹介した石倉造りの建物などが並んでいる瀬上町遊郭は、明治三十五年に移転したもので、瀬戸家は移転時に遊郭からは手を引いたそうです。

年季奉公で子守をしてくれていた人が、年季明けで遊郭に・・・ 何だか現代人の私には受け止めにくいお話ですが、当時は割とこういう話はあったんでしょうね。

七町歩の百姓というのはピンと来ないでしょうから補足しておくと、東京ドームの1.5倍ほどの作付面積を所有する百姓だったということです。

富国強兵のための外貨獲得源であった養蚕業のメッカの信達地方は、極めて短期間で戊辰戦争後の復興がなされました。会津藩は1年近く藩士の亡骸を埋葬どころか移動すら許されず野ざらし。片や、コチラは2年くらいで復興し、更に銀行はどんどん建つ。

同じ福島県とは言っても、廃藩置県で1つになっただけで、会津とは全く状況が違いますね。

東北は全体的には明治政府に逆らった土地として冷遇されましたから、産業などのテコ入れがあまりされていませんでした。そのため貧困に喘ぐ農民や士族の子弟が身売り同然の年季奉公に出される。

雇用者側から見れば、安い労働力が安定供給されます。東北は、農業以外の自活手段が乏しいために、不利な条件の小作農を受け入れる者が多かったので、地主に有利だったという事も、以前紹介しました。

冷遇され続ける東北にあって、ごく限られた土地だけが富国強兵の国是国策に乗って重点的に厚遇を与えられていれば、安い労働力を獲得しながら、高く買ってもらえる生産物を作れるんですね。

更に、安く獲得した労働者が年季明けには遊郭へ。それも管理して、しっかり利益を上げる。そういう事が可能な時代だったんですね。

で、そんな素晴らしい追い風に乗っていたのが当時の瀬戸家ではないのですか? 不遇に晒された会津藩を引き合いに出して、自分は東北人の苦しみを理解する代表者だというようなエントリーを立てる瀬戸弘幸さんの神経が私には理解出来ません。

他方、瀬戸孝一さんは、世間の批評に晒されるリスクは十分予想したでしょうに、瀬戸家が歩んできた歴史の一端を正直に書き綴っておられます。

自分たちの過去と向き合うことは、なかなか大変な作業です。これには一定の評価をしなければならないと思います。

瀬戸弘幸さんも、そろそろ貯めに貯めた宿題と向き合った方が良い頃合いではないでしょうか?



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2009年11月11日水曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その23)


これはまた随分と馬鹿げたエントリーを・・・


瀬戸弘幸さんは、北朝鮮籍、韓国籍、いずれの方も朝鮮半島に帰るべき人だと今になって主張していますが、数年前までは無条件帰化を提唱していました。

それをshinok30さんが指摘したところ、ご覧のような虚偽説明をしながら都合の悪い指摘を悉く削除。残念ですが、しっかり魚拓が取られていますよ。



kwoutから魚拓を辿って戴くか、ウチの前回のエントリーのコメント欄にshinok30さんがレポートを書き込んでくれているので、そちらを参照して下さると、瀬戸弘幸さんの説明がデタラメであることがすぐ分かります。

私からも色々言っておきたい事があるので、shinok30さんと重複する部分もあるかと思いますが・・・



共産中国問題、靖国問題、国内左翼勢力に対する考え、多くの問題で、瀬戸弘幸さんの考えと、読者(いわゆるネトウヨや嫌韓厨が多いのでしょう)との考えはほぼ一致しているが、韓国については違うと自ら述べていますね。

ここでもセマウル運動について述べています。宿題遺棄シリーズで再三指摘してきた通り、瀬戸弘幸さんはセマウル運動をボランティア活動だと虚偽の説明をしていますが、実際は統一協会や勝共連合と関係の深い活動です。

『この日本に生まれ、同時代を一緒に生き、日本に骨を埋めようと考える者を、なぜ日本社会が受け入れないのか?私にはその方が逆に不思議でならない』というのが、瀬戸弘幸さんの考えです。


虚偽の記載が非常に多く、徐才喜冤罪事件というフカシ記事を持ち出して、更に韓国人擁護に全力投球する瀬戸弘幸さん・・・

国会図書館にも、「福島民友」と「福島民報」が保管されていました。福島県立図書館で閲覧するのに使った時間の数倍かけて丹念に読み直しましたが、やはり徐才喜さんが逮捕されたという記事はどこにもありません。

新聞記事になっていないのに、各紙が大きく報じたとウソを書いたのは何故でしょうか?


左傾化? ウソも大概にしましょう。 自国民を抑圧し、時には虐殺して来た軍事独裁政権が瀬戸弘幸さんが支持する反共政権であり、その復権を望んでいるんじゃないですか?

そもそも反日教育をして来たのも、度重なる謝罪と賠償の請求を繰り返して来たのも歴代の軍事独裁政権です。反共の看板を掲げて光州事件などで自国民を大量虐殺するような政権を、セマウル運動参加などで支援して来たのが瀬戸弘幸さん。

セマウル運動が本当に単なるボランティア活動で、瀬戸弘幸さんが真面目に韓国人のためを思って参加していたのなら、全斗煥(チョンドファン)ファミリーがセマウル運動資金を横領して、不正蓄財していたと知った時点で激しく非難しているはずですが、そんな素振りは全くない。

あくまで、全斗煥を追い落として民主化し、全斗煥政権以前の不正を追及している政権を左傾化していると非難しています。


こんなご立派な発言をしていながら、実際には韓国人のためを思って支援などした事はなさそうです。都合よく利用できそうだから利用していただけ。

軍事独裁政権がコケて、韓国人が勝共の思うようにならなくなり、日本国内では嫌韓厨との議論で厳しい立場に・・・ で、こういう汚い過去をきちんと説明せず、韓国人が左傾化して愛想が尽きたので嫌韓になりますって虚偽説明かましたんですよね?

瀬戸弘幸さんの主張が矛盾だらけという指摘はこの辺にしておきますか。この頃『日本よ何処へ』のコメント欄に参加している人達は割と熱い人が多かったようです。

少なくとも、最近のコメント欄参加者の方々のように気持ち悪い人ばかりではありません。東村山の洋品店襲撃の一件辺りから、すっかり瀬戸弘幸さんを見限ってしまったmiracleさんも、このエントリーにトラックバックしてますね。

このエントリーでは、特に声優さんの発言が目立っているのですが、私が特に気になったのは「金 国鎮」さんの発言です。


瀬戸弘幸さんは、この発言の意図するところが理解出来たでしょうか?


瀬戸弘幸さんが、もう少し懇切丁寧に対応していれば、色々な事が聞けたんじゃないですかね。他所の掲示板でこんな発言をされています。

これを見て分かることは、北朝鮮系の在日の方々は、肉親に会えない事で本国に人質を取られているような状態にされていて、それが拉致などの協力を強いられる要因になっていたという事です。

韓国側は、KCIAを通じて彼らをパスポートなし帰国させる事で、こうした状況から解放していた。

金国鎮さんの目線では、人道的という事になるんでしょうが、家族を「人質」として押さえて「在日」を工作員として使ったり送金させたりしたい北朝鮮と、それを阻止したい韓国が、日本を舞台に熾烈な工作を展開してたという事なんでしょう。

民団がセマウム運動や墓参を繰り返すうちに、何故か総連と人口逆転したという指摘もさせて戴きましたが、日本における韓国系vs北朝鮮系の在日社会の戦いも、瀬戸弘幸さん達の考える反共の戦いの一環になっていた時期があったのではないでしょうか?


西村修平さん在籍時代の國民新聞でも、こんな指摘がありますね。

北朝鮮の帰国事情は、人質を差し出させる事業です。それを熱心に勧めた朝日新聞や進捗的文化人の面々を厳しく批判するというなら結構な事ですが、ろくな考えなしに帰国させろですか。

また、帰国事業が生んだ悲劇として、日本人妻が未だに一時帰国も果たせない問題など、瀬戸弘幸さんはどうお考えなのでしょうか? 北朝鮮に拉致されて帰国できない人達と事情はさほど変わらないのですが・・・

そうした問題について真剣にお考えなら、こんな不真面目な発言は出来ないはずです。



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2009年11月6日金曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その22)


有門大輔さん、国家ぐるみで拉致という犯罪行為を働く北朝鮮に食糧支援など言語道断と仰りたいんですね?

瀬戸弘幸さんと、まきやすともさんが、国際宗教連盟に加入するきっかけになった五味武さん(故人)が代表を務めるNGO、グローバルレインボーシップが、北朝鮮による拉致発覚後にデヴィ夫人と共に120トンのコメ支援を行っていた件を前回ご紹介しました。

その後も、この団体について調べ物を少ししていたのですが、追記では書ききれなくなって来ましたので、やむを得ず1回分のエントリーを起こす事にしました。


2007年9月12日~15日に、グローバルレインボーシップと、全国勝手連合会という団体が合同で、北朝鮮を訪問しています。

リンクを見て戴きたいのですが、チュチェ思想の塔の前で記念写真を撮り、平和のメッセージを書き記し、よど号事件の小西隆裕さん、赤木志郎さんらと談話して肩を組み、人民軍兵士や黄虎男・対外文化連絡協会・局長と硬い握手。



素晴らしい歓待を受けたようですね。まさにVIP待遇。グローバルレインボーシップって、本当に北朝鮮では厚遇を受けてるんですね。

ちなみに、全国勝手連合会会長の光永勇さんも、国際宗教連盟の会員です。瀬戸弘幸さん、まきやすともさんと仲良く名前を並べていらっしゃいます。



もう一度、おさらいしておきましょう。

まきやすともさんは、ブログ上で国際宗教連盟の解説をするに辺り、(グローバルレインボーシップ代表の)五味武さんを通じて知己になった中井天山代表の要請を応諾して、加入したと説明していますね。

つまり、元々五味武さんと知り合いだと告白しています。

瀬戸弘幸さんの師匠である岩崎定夢さんは、優健美館の記事で五味武さんと古いつきあいであることを紹介しています。

そして、国際宗教連盟内での瀬戸弘幸さん、まきやすともさんの肩書きは、五味武さんと同じですね。この方の縁故で加入したんですから当然の成り行きでしょう。

このグローバルレインボーシップというNGOは、拉致問題発覚後も積極的に北朝鮮に食糧支援を実施しています。デヴィ夫人と共同でコメを送ったり、勝手連合会と訪朝したり、大活躍です。

素晴らしい団体と仲がよろしいんですね、有門大輔さん。随分お話が違うんじゃないですか?

知らなかったでは済みません。グローバルレインボーシップが北朝鮮に食糧支援を実施したり、新左翼の方を訪朝させる手引きを行っている事は、西村修平さんが在籍していた頃の國民新聞が記事にしています。

在日右翼と言われている某団体は、グローバルレインボーシップに名義貸ししていた大物政治家に対して抗議文などを送ったりもしているようです。(※当時は、こんな団体だとは知らなかったでしょうから、政治家さん達も災難だったでしょう。)

事情を知らずに名義貸しをしていた政治家さん達とは違って、瀬戸弘幸さんや、まきやすともさんは、『拉致が発覚した後も北朝鮮に食糧支援を続けている団体』だと知りながら名前を貸して居るんですよね?

これは、拉致問題に真剣に取り組んで来た人たちに対する重大な裏切りじゃないんでしょうか?

前回のエントリーで、知らんふりを決め込んでまともに説明をする姿勢が皆無だった事なども考え併せると、相当に後ろ暗いものがあると判断せざるを得ません。


御三方は、国際宗教連盟のヒーローだそうですね。チュチェ思想の塔の訪問はもうお済みですか?

前回のエントリーで、まきやすともさんの説明はまずいのではないかと問いかけておいたのに知らん振りですね。つまり、五味武さんとの繋がりを認めたと解釈されても構わないと仰っているのと同義ですよ。

私はいきなり決めつけたりしないで、誤解があるようなら訂正しておいた方が良いのではないかとお聞きしたのに、そのままで良いとは・・・



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2009年10月31日土曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その21)


なるほど。瀬戸弘幸さんはこんな疑問をお持ちですか。「韓日」ではダメだと。


上記の通り、瀬戸弘幸さんは国際宗教連盟に所属しています。


これ、瀬戸弘幸さんが所属している国際宗教連盟のHPから拾いました。『日韓』と書いてない理由を尋ねたいところですね。他でもない瀬戸弘幸さんの所属団体ですよね?


「韓日友好」という表現は、右翼団体の街宣車にも書かれているとネット上で紹介されているんですか。その説を瀬戸弘幸さんは根拠もウヤムヤニ否定するんですか? ごく一部がやってるだけだと。

瀬戸弘幸さんは、国際宗教連盟に在籍している理由を下記のように説明しています。


行動右翼時代の知り合いのよしみで名義貸しなさっているそうです。間違いありませんね?

行動右翼時代のお知り合いのよしみで名義貸しするような団体が、黒塗り街宣車さんと同じように「韓日友好」を掲げているんですね。

キレイに繋がっているようですが。インターネットで流れている説は正しいんじゃないですか? 根拠も示さずに否定している瀬戸弘幸さんが間違っているように思えますけど。

他にも国際宗教連盟の役員さんを見ていくと、韓国との友好関係を構築することに熱心な団体の方が結構多いようです。普通、団体の趣旨くらいは把握してから加入するものだと思いますが・・・

国際宗教連盟が掲げる核廃絶とか、瀬戸弘幸さんの政治的スタンスと折り合いがつくんですか?


過去のエントリーを見ると、こんな事も書いていますよね? 黒塗り街宣車に乗っている右翼さん達の実情が必ずしもクリーンでないと、他でもない瀬戸弘幸さんが解説してるじゃないですか。


こんな事も書いておられますよね? 行動右翼時代のよしみで「韓日」なんて表現を喜んで使う団体に在籍する瀬戸弘幸さんですから、『私は10年前にこのような行動右翼と呼ばれた人達との交際が途絶えているので現在の状況は分かりません。』と説明されているのも、にわかには信じ難いです。

文鮮明が北朝鮮を電撃訪問した後も、勝共理論を捨てておらず、日本のネトウヨに対して、韓国農村部(=セマウル)の青年(つまり、統一協会に思想洗脳された青年)と共闘するよう呼びかけている瀬戸弘幸さんです。

言行不一致があまりに多いので、ご本人の説明はそのまま鵜呑みにせずに慎重に吟味する必要があります。

一事が万事とは言いませんが、こんな風に瀬戸弘幸さんの主張は、矛盾に満ちています。

私は、そういう矛盾を1つずつ丁寧に検証しているだけです。大半が、瀬戸弘幸さんの過去の主張の矛盾点の検証に過ぎません。

この時のshinok30さんとのやり取りを読み返すと、瀬戸弘幸さんが否定したかったのは、『瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む』と銘打った本シリーズ全体に見えます。

私に噛み付いて来た時には、話がすっかり変わっていて、

1)徐才喜さんが実在しないっぽいと言っている
2)瀬戸弘幸さんが、瀬戸孝一さんの親族っぽい言っている

以上2点だけでも、ワールドワイドウェブがデタラメばかり言っているのは明白。というような形になっていました。

反論できそうな部分はここだけだったんでしょうね。良く意図が分からないので、何が不服なのか再三意図を聞いたのですが一切回答なし。情けない人です。

自分が何について不服なのかすら、私にきっちり意思表示できないんですか?

しかも、この2点についても発言が二転三転します。

『30年前の記憶が鮮やかに蘇る』程の一級品の資料が出てきたならば、それを公表して、私の記事が全てデタラメだと立証すれば良いはずですが、『30年前の記事にそこまでする必要はない』と尻すぼみになって逃げ出しました。

そもそも、『30年前の記事にそこまでする必要はない』って理由になっていません。私がデタラメばかり書いていると断定したくてたまらなかったのは瀬戸弘幸さんだったはずです。

手元に資料があると公言している以上、それを出さない理由もないでしょう。何故逃げるのですか?

そもそも、事件番号や判決文は私が出せと言い出したものではなく、瀬戸弘幸さんが勝手に言い出したものです。

私は、『徐才喜さんが逮捕された事が新聞で大きく報じられたと記事に書かれているのに、肝心の新聞記事がどこにもないからフカシっぽい』と判断したに過ぎません。

何月何日の何新聞に掲載されたか適示するだけで、私の調べ方が甘かったと証明することが出来るはずです。何故それをしないのか、私には理解できません。

私は新聞記事を基準に判断し、断定はしていません。

公的機関に一切記録が残っていない事件番号、公印のない判決文正本と証する1枚紙等をもってきて、動かぬ証拠と次々に主張されても、どれも第三者が本物か確認する手段がない。

私の努力が足りないと言いながら、毎回正しい情報に辿りつけない誘導を繰り返す瀬戸弘幸さん。こんな不誠実な態度では、事の成り行きを見守っている人たちも不信感を募らせるだけでしょう。

明らかに説明がつかない矛盾だらけの主張を繰り返しているのは瀬戸弘幸さんではないでしょうか。

今回見せて戴いたエントリーも酷い矛盾だらけでしたね。

【追記】
瀬戸弘幸さんが国際宗教連盟に加入するきっかけになったのは、まきやすともさんが話を持ってきたからではないでしょうか?


このお話を見ると、五味武という方と、まきやすともさんが知己であった事が分かります。


西村修平さんとも縁が深い「國民新聞」が、デヴィ夫人らの訪朝計画をすっぱ抜く記事を上げていらっしゃるんですが・・・

赤軍派(※新左翼ですね。日本赤軍とは同系列ですが、必ずしも全く同じ組織ではないので混同しないよう注意が必要です。)の元議長である、塩見孝也さんの訪朝の仲介しているのが五味武さんですか。

この方は、北朝鮮に対する米支援などでも保守の方々の非難をかなり浴びていたはずですね。


瀬戸弘幸さん、まきやすともさんは、五味武さんと同じUNHUNGOAという肩書きです。何の略称かは全く分かりませんが、五味武さんの縁故で加入されたという事で、同じ役職についたのでしょう。

この方の海外協力事業の欄を見ると、確かに北朝鮮関連の事業が多いようです。「國民新聞」にも書いてあるぐらいですし、北朝鮮と何らかの不穏なパイプがある方と見て間違いなんですよね?

そういう方と、まきやすともさんは知己であり、そのツテで瀬戸弘幸さん共々国際宗教連盟に加入。なるほど・・・

また『デタラメだ!』とか伝家の宝刀、『訴えられるか検討してみます!』を振りかざしてみますか?

ニュースソースとして「國民新聞」は全くアテにならないと仰るなら別の切り口からの解釈を試みますけど。

【追記2】
瀬戸弘幸さんの文筆業、ジャーナリストの支障師匠(※Tomatotic-jellyさんが誤変換を発見して下さいました。)である岩崎定夢さんと、五島武さんは随分昔からのお知り合いなんですね。しかも「福島県」つながりですか。これは興味深い。


ところで、「優健美館」と言えば、ナノテクゼリーを販売しようとした時に、効能等について科学的に説明して欲しいという要望が殺到してブログが機能不全に陥って、質問は全てこの「優健美館」で受け付けると瀬戸弘幸さんが立ち上げたものでしたよね?

健康食品会社のブログという形を取っていましたが、統一協会との関係を質問されて、乗っ取られたという謎の回答を残されていたと記憶していますが。ここはShinok30さんに解説をお願いしたいところです。

岩崎定夢さんの「岩崎企画」、ナノテクゼリーの「優健美館」、瀬戸弘幸さんの「世界戦略研究所」などは、全部同じ住所なんですよね? 松沢呉一さんが、この辺りについては丹念に調査をされています。



福島県の郷土資料はもっと徹底的に洗うと面白いものがどんどん出て来るんでしょうね。


凪さんも、ブログ上で丹念に瀬戸弘幸さんや有門大輔さんが関与した会社整理などについて調査をしていますし、そうそう隠しおおせるものではないでしょう。

瀬戸弘幸さんの現在の活動に、右翼としての矜持が微塵も感じられないのは、これまでの人生をどう歩んで来られたのかとも深い関係があるんじゃないですか?

【追記3】
調べたら、コメ支援の件もアッサリ見つかりました。五味武さんとデヴィ夫人で120トンのお米を北朝鮮に送ってるんですね。しかも北朝鮮による拉致問題が発覚した後で。保守派の方々の受けが宜しくないのは当然だと思います。


朝鮮日報で取り上げられていますね。瀬戸弘幸さんと同じUNHUNGOAという肩書きの故・五味武さんは、北朝鮮には相当感謝されているんじゃないでしょうか?

ついでと言っては何ですが、こんなのも見つけましたよ。


国際宗教連盟の中井天山さんが実質的には取り仕切っているんですかね? 瀬戸弘幸さんの師匠である岩崎定夢さんと、五味武さんのお名前が並んでいます。平成12年6月2日に正式発足だそうで、結構以前からおつきあいがあるんじゃないですか?

瀬戸弘幸さんが名義貸しする渡世の義理は色々とありそうですね。みんな繋がっていらっしゃるようです。

それにしても、拉致問題が発覚しても北朝鮮に米支援するような方、新左翼の赤軍派の元代表を北朝鮮にお連れするような方とお知り合いで、その顔繋ぎで国際宗教連盟に加入したとまきやすともさんが説明してしまっているんですよね。

この件は、そのままにしておいて宜しいんでしょうか? 瀬戸弘幸さんの普段仰っている事から考えると相当まずいと思うんですが。



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2009年10月19日月曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その20)

切葉鳩@Free Tibetさんが久々に更新しておられました。

ちょっとその絡みで、と言うほどでもないのですが、瀬戸弘幸さんが、しつこく同じウソをつき続けるので、1回分のエントリーを使って再度丁寧に検証してみたいと思います。


・日本の生存権を、アメリカと中国のどちらに委ねるべきか?
・アメリカとは『自由と民主主義、基本的人権の尊重という人類の普遍的な価値』を共有出来る。
・日米関係を危うくするなら、日本民族の将来の運命こそ、第二のチベットや東トルキスタンである

要約としては、大体合っていますよね? 間違っていたら指摘して下さい。


この記事を覚えておいでですか? 2006年01月26日のエントリーです。この25年前というと、1981年前後です。

まず、『「自由VS共産」というイデオロギーの厳しい戦い』という虚偽説明をなさっていますが、実際は「軍事独裁VS共産」ですね。まぁ、とりあえず置いておきましょうか。


Wikipediaで調べてみると、全斗煥(チョンドファン)大統領就任前後だということが分かります。まだ韓国々内は「夜間外出禁止令」が解けるかどうかという物騒な時期で、韓国人の対日感情が良い悪いなどというお話をしていられる状況でなかった事も分かります。

更に、全斗煥大統領が民主化運動を武力鎮圧して、市民に大量の犠牲者を出した「光州事件」を中心に紹介します。



瀬戸弘幸さんが、左派として忌み嫌った金大中(キムデジュン)氏の名前がありますね。

この頃から金大中氏は民主化運動で人気がありました。逆に、民主化運動を押さえつけておきたい全斗煥氏にとっては、これほど邪魔な人物は居ませんでした。

この後、鎮圧軍と市民が衝突・・・



1979年12月27日、抗争指導部を率いていたユン・サンウォンを含む市民軍の多くが射殺され、鎮圧作戦は終了しました。

こんな事件があり、軍事独裁政権という形で権力を手中にした全斗煥政権を瀬戸弘幸さんは支持したんですよね。

さて、冒頭の瀬戸弘幸さんのご高説に戻って考えてみましょうか。

当時の韓国には『自由と民主主義、基本的人権の尊重という人類の普遍的な価値』は存在しましたか?

反・共産主義という旗印は掲げていましたが、保安司令官全斗煥陸軍少将率いる新軍部は、民主化を求める市民を武力鎮圧し、従わない者を虐殺しました。

瀬戸弘幸さんは、そういう政権を『反共の同士』として支持して、わざわざ現地に赴いてまで支援していたんですよね?

そんな人が、当時の軍事独裁政権に問題があったと一定の反省や批評もすることなく、共産主義国家だけを『人類の普遍的な価値』とやらを尺度にしてご高説を垂れ給うというのは、一体どういう了見なんでしょうか?

私には全く理解出来ません。

『人類の普遍的な価値』に照らして、瀬戸弘幸さんは最低の人間だと言われかねないのでは?

フリーチベット運動の方々などは、政治運動のために利用しようという下世話な考えで活動していなかったと思うのですが、「行動する保守」の方々は違いましたよね。

最初から、中国共産党批判などが主目的で、チベットと関係ない主張もバンバン言う。

周囲の保守層の方々から批判されたら「キレイ事保守」と逆ギレなさっておられましたが、こうやって瀬戸弘幸さんの過去を遡って調べていくと、元々がおかしな人だったと言わざるを得ません。

共産主義国家は、自国民を抑圧したり虐殺してはいけない。だが、反共国家がそれをやるのは大いに認める。

瀬戸弘幸さんは、そういう人なんですよね?

どこが間違っていましたら、きっちりご説明戴きたいと思います。



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2009年10月17日土曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その19)

「除才喜冤罪事件」の裁判資料の公開はもうないと思っていたら、何だか微妙なものが公開されました。


瀬戸弘幸さん、反論になっていません。最低限、以下のような部分は提示すべきではないのですか?

他裁判の資料提示の時は、全文公開で、上記のように裁判所の公印が押されていることが確認できるようになっていました。

今回お見せ戴いた資料は、裁判所が出したものかどうかすら判断できません。

再度言いますが、資料の公開は、必ずしも私を納得させるためだけにすることではありません。

誰もが納得する資料を出すことで、瀬戸弘幸さんの名誉が守られます。そのためにするという意味合いの方が強いでしょう。私に対して『どうだ、参ったか!』という態度を見せつけても全く意味がありません。

誰もが納得するような形で資料を出すことが大事です。手抜きをしては、見ている人たちの心象を悪くするだけですよ。

この資料を見た人が『ああ、これは間違いなく徐才喜事件の判決文なんだ』と納得できるような形で全文公開して下さいね。そうすることで、疑念は解消されます。

1週間お待ち申し上げましたが、どうも分かっておられないようなので再度説明しますね。

瀬戸弘幸さんが前回ご説明下さった日付けから考えると、初公判から判決まで時間がなさすぎます。お手元の裁判資料がどのようになっているか分かりませんけれど、被告(=徐才喜さん)が、起訴事実を全面否定していたら、国選弁護士しかつけられないような苦しい立場の人だったとしても、そんなに簡単に決着するわけがないと思うんですが。

(※追記:瀬戸弘幸さんの記述に合わせるなら、『詐欺容疑での起訴に対して「やっていない」と冤罪を主張した事件』として記事ということになる。しかし、否認していたら初公判から判決まで3~4ヶ月で済むわけがない。つまり、初公判の時点で全面的に起訴事実を認めていたでしょうという事。)

それでも、「徐才喜冤罪事件」の連載記事と一切矛盾せず、被告は精一杯戦った記録が残っているというのなら、見せてください。お手元の裁判記録からそれが読み取れるんですよね?

あと、被告が遠藤文子さん殺しの嫌疑をかけられていた事が大きく取り上げられていた新聞記事もスキャンして公開してください。当時の資料が出て来たのだから、お手元にあるのですよね?

出し惜しみするべきではありません。それを全部出せば、私が大きな勘違いをしていただけで、瀬戸弘幸さんが正しかったのだと皆が納得するんじゃないんですか?

私も、納得できる資料がきちんと提示されれば然るべき対応をしますよ。

何度も言わせないで戴きたいのですが、事実関係を全く確認できない状態で、謝罪せよとか、認めろとか、おかしな事を言われても、私はそれを受け入れることは絶対にありません。

今のところ、反論になっていません。前回もそうでしたが、これなら黙って居られた方がずっとマシだったと思いますよ。

瀬戸弘幸さんは、自分で自分の名誉をボロボロに傷つけていらっしゃいます。

1.対話も議論もせずに訴えると騒ぐ
2.事件番号と日付を公表するも、時程上の不整合から逆に不信感増大
3.公印すらない1枚紙を「判決文」と主張/新聞記事は出さず

資料を出す心積もりがあるなら、最初からきちんとしたものを出すべきです。誠実な対応をお願いします。

【追記】
論点は最初から全く変わっていません。「徐才喜冤罪事件」がフカシ記事かどうかです。

その裏を取ろうと、『大きく報じられた』はずの新聞記事を探して複数の新聞を1日も飛ばさずに読んだのに該当記事がないので、『限りなく架空人物の疑いが強い』と結論づけました。これは、確認手段の1つに過ぎません。

未だにそれを覆すまともな証拠な何一つ提示されませんね。

仮に実在したとしても、記事の内容と実際の事件の内容がかけ離れていれば『フカシ記事である』という指摘はそのままです。

もし、新聞にも載らないような犯罪者の事件を、冤罪のように捏造して「フカシ記事」に仕立て上げていれば、それを誇らしげに掲げて私に謝れというのは、誰が見たっておかしいですね?

瀬戸弘幸さんは、そのような姑息な記事は書いていないのでしょうから、手元にある資料をきちんと公開して白黒つけた方がよろしいかと思います。

また、私が農業事情に明るくないから、適当なお返事で十分とお考えのようで、非常に残念です。せっかくですから、浅学な私に色々教えて戴けると幸いに存じます。



GHQが農地解放する以前は、地主、自作農、小作農と、大きく3つのスタイルがありました。しかし、作付面積が小さな農家は収益率が低いので、土地を借りてまで農業を続ける人は東北以外ではどんどん淘汰されて行きました。

ところが、特に東北地方では、他の産業の発展が捗捗しくなかったこともあり、むしろ農業人口が増加する地域なども。これにより、労働単価が下がり、地主は安定的に大規模農業が営めたのでした。

安定収益を確保していた地主と対照的に、低賃金で困窮した農民たちは、女を身売りに出さなければならなくなったりもしたようで、東北地方各地には遊郭が点在しています。

リンゴ栽培発祥の地である瀬上町も、戦後しばらくは瀬上町遊郭が存在しました。



ここなどは、「石倉作り」の立派な建物だったようですね。(※私が知る限り、瀬戸家が遊郭の経営をしていたという記録は見ていないので誤解はしないで下さい。)

私なら、堅牢な「石倉」を建てる経済的なゆとりがあれば、少しでも早く自分の土地を持って「自作農」になるという選択肢を選びますけど・・・ どうしても倉が必要だとしても、当座をしのぐ、普通のを建てます。

農家なら、例え小作でも「石倉」をお持ちですかそうですか。瀬戸弘幸さんの珍奇な説明を鵜呑みにすると、東北の農家って頭がおかしな方の集まりに見えてしまいます。

戦後、農地解放で自作農になってから建てたとご説明になるのかと思っていたら、どこの農家でもと仰られたのでびっくりしてしまいました。

今更撤回できませんよ。

東北の困窮には様々な要因がありますが、瀬戸弘幸さんが先日触れた戊辰戦争にも、その要因の一端が垣間見えます。薩長主体の官軍将校の誰かが、『白河以北一山百文』と、東北地方を侮蔑する言葉を吐きつけています。(※この白河は、私が本シリーズで取り上げている「白河高原」でもあります。)

その言葉を裏付けるように、戊辰戦争で明治政府に逆らった土地として、ことごとく冷遇されたのが東北地方です。

瀬戸弘幸さんは、新しい維新を東北からと仰っているようですが、「二・二六事件」や「五・一五事件」の遠因は、こうした不当とも言える過度の貧困に追い込まれた農民の不満を背景に受けていたと言われています。ご存知ないというか、そうした実感をお持ちでないようで・・・

そうした辺りからも、瀬戸弘幸さんの家柄からは、東北の小作農民が抱えていた塗炭の苦しみの記憶が全く感じ取れないのです。

明治30年頃からは、白虎隊の忠孝の美徳などが高く評価されるようになったものの、それまでの扱いの酷さは筆舌に尽くしがたいものがありました。

戊辰戦争の会津藩側の戦没者は、埋葬どころか移動すら認められず、半年もの間城下に野ざらしで放置させられ、嘆願の末ようやく埋葬が許可されるという有様でした。同じ日本人がこういう蛮行をしたんですね。

幕府転覆を目論むテロリスト扱いだった薩長、取り締まる側だった会津の正邪が、時代の流れで逆転しました。その途端に、人を人とも思わないような扱い。

しかも、戊辰戦争が終わった後、会津藩のお侍だけでなく白河以北に住む全ての人々を不遇の扱いとする。ひどい話ですね。

(※追記:補足になりますが、生き残った会津藩の方々も北海道の開拓地送りなど、事実上の国替えになった方々が多かったようで、会津に残って不遇な境地においやられていたのは、むしろ農民など戊辰戦争に直接関わりのない方々でした。)

こうして振り返ってみると、明治政府のやった事も許しがたいものがあります。そして、蓄積した不満が「二・二六事件」や「五・一五事件」の青年将校を動かす原動力になりました。

地方の鬱屈した不満を利用して、政治をひっくり返す試みは、既に過去にも何度も起こっているんですよ。

瀬戸弘幸さんは、もう少し歴史のお勉強もした方がよろしいのではないでしょうか。大事な視点がかなり抜け落ちていらっしゃるようにお見受けします。

【追記2】
今回は、親愛なる『日本よ何処へ』コメント欄住人の皆さんに対してもお返事をしておきます。当該エントリーのコメント欄に感想を書き加えてみました。

コチラからどうぞ。

【追記3】


瀬戸弘幸さん、鏡をお持ちでないのですか? 都合の悪い話題から、みっともなく逃げ回っておられるのは、他でもない瀬戸弘幸さんではないですか。


手元に、冤罪であることを証明する資料をお持ちですよね。そう公言なさったはずです。

それを出せない合理的な理由を全く説明もせず、公印すら判別できない1枚紙だけを公開して胸を張っているのは、非常にみっともないとお思いになりませんか?

また、私が質問した事に対して、これまでろくに回答なさっていません。何度質問しなおしても、その度に無視してお逃げになる。

瀬戸弘幸さんが今回持ち出した理屈によれば、瀬戸弘幸さんは創価学会員だという事で間違いないですね?

毎度の事ながら、言論家としては幼稚すぎる物言いが多すぎるように思います。

差し出がましいようですが、鏡の前できちんと襟を正して、身なりを整えてからディベートに臨まれた方がよろしいのではないか。

【追記4】


全斗煥の犬ブログである『日本よ何処へ』に、こんな記述がありました。

自分の事は棚に上げてしまう態度も実に見事なものがあります。まるで、ネトウヨが嫌う特定アジア諸国の人々のメンタリティーをそのまま投影しているかのようです。

『主張の多少の間違いがあっても、それ以外の部分は認めろ』と言っているようですが、この人物が当ブログに対しては、『1~2箇所の間違いを指摘すれば、デタラメばかり書いていることは明白である。』と主張しています。

見事なダブルスタンダードぶりです。開いた口が塞がらないとは、こういう事を言うのでしょう。

自分の都合がよさそうな部分のみを切り取って騒ぎ立てて、それで勝ったかのように騒ぎ立てるのは、創価学会の得意技と吹聴なさってますが、明らかにそれを言っているこの人物が、当該エントリーで鮮やかにそれを実演なさっているという。

ギャラリーの皆さんも、それに気づいてしまっている。こんな恥ずかしい記事を書いて、普通の神経していたらブログごと畳みたくなりますけど、この方は、半島や大陸的なメンタリティーをお持ちなので、きっとまた逆恨みされるんでしょうね。

困ったもので。



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2009年10月15日木曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その18)

瀬戸弘幸さん、色々考える時期を迎えているようですね。

マキャベリーの「君主論」で言うところの、駄目な君子の典型が「行動する保守」をリードしている面々ではないでしょうか。

『政治的に最大限の効果を上げると判断した時には、悪評を恐れてはいけない。』
『世間の評判を良好に保つことだけに心を砕き、政治的選択肢を自らつぶしてはいけない。』

これらは、自分達が行う政治的手法がどういった成果を挙げるか、的確な判断が出来ていて初めて意味を持ちます。

『一部の聴衆の喝采と支持を得る』代わりに『大部分の国民の支持を無くす』行動を取り続けたツケは、自ら払うことになります。

マキャベリーが理想の君主と考えていたであろうチェーザレ・ボルジアは、領土や資金を得る等、具体的かつ大きな利益と引き換えに悪評を恐れず大胆な振る舞いをしていました。

瀬戸弘幸さん達は、最初から世間や支持者の風評頼みで、広範な支持か一部の先鋭的な支持者を取るか、いずれかという時に後者を選んだに過ぎません。「君主論」で述べられている『悪評を恐れてはならない』とは違うでしょう。最初から目線が低すぎたんじゃないでしょうか?

ルネサンス期のイタリアとは事情が違うとは言え、戦略的目標を立てて、そのためにという具体性があまりになさすぎますね。支持者に喝采浴びるための街宣を繰り返し、それが先鋭化していただけです。

あと、民族虐殺がどうのと言っておられますが、瀬戸弘幸さんは「光州事件」の事をどう思われているのですか?

瀬戸弘幸さんは、全斗煥(チョンドファン)政権発足直後辺りからセマウル運動に参加されているようです。つまり、反共の同胞として全斗煥政権を発足当初から全面支持されていたと私は解釈しています。

1980年の5月の起こった事件ですね。市民軍の多くが射殺され、人口75万人の光州市に投入された総兵力数は2万に至った。

その前段階として、保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握した(粛軍クーデター)。これに対し、全国各地で民主化要求デモが巻き起こっていました。

結局、自国民を大量虐殺、武力鎮圧して全斗煥は軍事独裁政権を確立したわけです。

瀬戸弘幸さんは、民主化を求める自国民を武力行使によって大量虐殺した政権を支持して「セマウル運動」にせっせと参加なさっていた。

そんなお方が、天安門事件だ、チベット、ウイグルだと言っても何の説得力もありません。

反共の旗を掲げていれば、軍事独裁政権で自国民を大量虐殺していても大歓迎。共産国家だと許せないと仰る。

この手の問題は、イデオロギー抜きで一貫して『許せない』と言える人でなければ信用ならないと私は考えます。

いつだったか、従軍慰安婦の展示会を左翼系の方々がやろうとした時に、『日章旗で取り囲め』ってやられてましたね。あの時、さりげなく「光州事件」についての特別企画を韓国の方を招いて開催するってなっていたんですよね。

そうしたら、瀬戸さん達はそっちの話題はスルーしとけばいいのに「光州事件」の展示まで非難。多分Google先生に質問したらすぐ見つかりますよ。

こんな態度で、中国共産党の虐殺や少数民族、マイノリティーの差別などを非難できるんでしょうか?

特に、フリチベ系の人とかこういう実態を知ったら心底ムカつくんじゃないかと思いますよ。

これも、ちょっと「セマウル運動」から派生した話題でした。

次回あたりから昭和50年頃のお話に戻りたいですね。

【追記】
昼間は時間が足りなくて検索が出来なかったので、改めてGoogle先生に尋ねてみました。

http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52179875.html



kwoutも初めて使ってみました。思った以上に快適ですね。

ご覧のとおり、左翼系の人たち、従軍慰安婦問題などを取り沙汰している人たちへの不満は分らなくもないんですが(※でも、彼らにも「言論の自由」は認めるべきです)、「光州民主化闘争当事者」の方々まで一緒に不逞朝鮮人にしてしまっているんですね。

で、別にこの人たちは反日的な主張を持って日本にやってきたわけでもないのに日章旗を持って取り囲んでしまうと。

共産主義の対極は自由主義だと瀬戸弘幸さんは仰りたいようですが、当時の韓国は延々と軍事独裁政権が続いていました。国民は民主化を求めていました。

ただそれだけなのに、弾圧されて虐殺されました。共産主義国家は自国民を虐殺してはいけないけど、反共という看板を掲げている国は、軍事独裁政権で国民を苦しめて虐殺しても許されると瀬戸弘幸さんは考えているんですよね?

瀬戸弘幸さんは、反共のパートナーとして国民を弾圧する軍事独裁政権の指導者こそふさわしいとお考えだったのでしょう。民主化を主導した金大中(キムデジュン)氏や盧武鉉(ノムヒョン)氏が大統領になったら、彼らは左派政権で反日教育を行っているから韓国人の反日感情が一気に膨れ上がったと主張しました。

実際は、歴代の軍事独裁政権の大統領が反日教育を脈々と続け、政権が交代するたびに謝罪と賠償のお代わりニダと繰り返してきたことを嫌韓厨は知っています。

2ちゃんねるで、よーめん閣下の理想とする軍事独裁政権が笑いの種になることが多々ありますが、実は瀬戸弘幸さんの理想とする政体こそ、軍事独裁政権ではないかな、と思うことが多々あります。

少なくとも、中国共産党のマイノリティー弾圧を非難する資格など全く備えていないですね。

【追記2】
「マンガ嫌韓流」などでも、常識外れの遡及法として紹介されている所謂「韓国法」という法律があります。ある時点まで、その国の憲法や法律で罪でなかったものを、後付けの法律で裁こうというのは国際的にもナンセンスだというものです。



これも、「光州事件」辺りから端を発しています。軍事独裁政権下では真相解明が進まずに、そのまま時効を迎えてしまった案件を、民主化実現後に究明しようとしたのが始まりです。

真相解明が進み、今度は補償を請求する権利があったのにその時期を逸した人たちに権利を認めようではないかと言う法律が続々と作られた。

賠償責任を加害者本人だけでなく子孫にまで負わせることが行き過ぎかどうかという部分で是々非々の論争はあるかも知れません。

ですが、全斗煥ファミリーのように「セマウル運動」の資金横領など、一族全体で大規模な不正蓄財をしていて、肝心な全斗煥氏は死去というケースなどもあることは当然考慮すべきです。

全斗煥氏に傾倒していたであろう瀬戸弘幸氏らは、子孫に対する責任追及に猛反対なさるのでしょうが。


(※杉山真大さんの指摘で気づきましたが、全斗煥氏はご存命でした。死刑判決後、特赦されています。)

(※訂正文:軍事独裁政権時代の方々の中には、既に死去されている人も居ます。その方の一族全体で不正蓄財をしているケースの場合、賠償請求は宙に浮いてしまうのでしょうか? 軍事独裁政権下で請求する機会すら得られなかった権利は、そのまま諦めよと言うのでしょうか? 韓国の国民が民主的なプロセスで選んだ政権下の手続きでなら、時効切れで諦めろというのは正論ですが、この場合は一定の議論の余地があるのではないでしょうか?)

これを十分に理解せずに非難してしまっているのが嫌韓厨を始め、大半の日本人。そして、こういう誤解が定着しているのを喜んでいるのが「行動する保守」を牽引する排外主義者の方々。

kwoutのリンク元を辿って、解説をきちんと読んでみることをお勧めします。



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