拝啓 瀬戸弘幸 殿

平成21年10月10日、徐才喜冤罪事件の取材記録が瀬戸家の石倉から出てきたとの喜ばしい報告を下さってから、早いもので8ヶ月が経過しました。

地裁の判決文全文(特に公印は必須)と、新聞が大きく報じたという、徐才喜さんの逮捕の記事の公表はまだでしょうか?

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2009年10月17日土曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その19)

「除才喜冤罪事件」の裁判資料の公開はもうないと思っていたら、何だか微妙なものが公開されました。


瀬戸弘幸さん、反論になっていません。最低限、以下のような部分は提示すべきではないのですか?

他裁判の資料提示の時は、全文公開で、上記のように裁判所の公印が押されていることが確認できるようになっていました。

今回お見せ戴いた資料は、裁判所が出したものかどうかすら判断できません。

再度言いますが、資料の公開は、必ずしも私を納得させるためだけにすることではありません。

誰もが納得する資料を出すことで、瀬戸弘幸さんの名誉が守られます。そのためにするという意味合いの方が強いでしょう。私に対して『どうだ、参ったか!』という態度を見せつけても全く意味がありません。

誰もが納得するような形で資料を出すことが大事です。手抜きをしては、見ている人たちの心象を悪くするだけですよ。

この資料を見た人が『ああ、これは間違いなく徐才喜事件の判決文なんだ』と納得できるような形で全文公開して下さいね。そうすることで、疑念は解消されます。

1週間お待ち申し上げましたが、どうも分かっておられないようなので再度説明しますね。

瀬戸弘幸さんが前回ご説明下さった日付けから考えると、初公判から判決まで時間がなさすぎます。お手元の裁判資料がどのようになっているか分かりませんけれど、被告(=徐才喜さん)が、起訴事実を全面否定していたら、国選弁護士しかつけられないような苦しい立場の人だったとしても、そんなに簡単に決着するわけがないと思うんですが。

(※追記:瀬戸弘幸さんの記述に合わせるなら、『詐欺容疑での起訴に対して「やっていない」と冤罪を主張した事件』として記事ということになる。しかし、否認していたら初公判から判決まで3~4ヶ月で済むわけがない。つまり、初公判の時点で全面的に起訴事実を認めていたでしょうという事。)

それでも、「徐才喜冤罪事件」の連載記事と一切矛盾せず、被告は精一杯戦った記録が残っているというのなら、見せてください。お手元の裁判記録からそれが読み取れるんですよね?

あと、被告が遠藤文子さん殺しの嫌疑をかけられていた事が大きく取り上げられていた新聞記事もスキャンして公開してください。当時の資料が出て来たのだから、お手元にあるのですよね?

出し惜しみするべきではありません。それを全部出せば、私が大きな勘違いをしていただけで、瀬戸弘幸さんが正しかったのだと皆が納得するんじゃないんですか?

私も、納得できる資料がきちんと提示されれば然るべき対応をしますよ。

何度も言わせないで戴きたいのですが、事実関係を全く確認できない状態で、謝罪せよとか、認めろとか、おかしな事を言われても、私はそれを受け入れることは絶対にありません。

今のところ、反論になっていません。前回もそうでしたが、これなら黙って居られた方がずっとマシだったと思いますよ。

瀬戸弘幸さんは、自分で自分の名誉をボロボロに傷つけていらっしゃいます。

1.対話も議論もせずに訴えると騒ぐ
2.事件番号と日付を公表するも、時程上の不整合から逆に不信感増大
3.公印すらない1枚紙を「判決文」と主張/新聞記事は出さず

資料を出す心積もりがあるなら、最初からきちんとしたものを出すべきです。誠実な対応をお願いします。

【追記】
論点は最初から全く変わっていません。「徐才喜冤罪事件」がフカシ記事かどうかです。

その裏を取ろうと、『大きく報じられた』はずの新聞記事を探して複数の新聞を1日も飛ばさずに読んだのに該当記事がないので、『限りなく架空人物の疑いが強い』と結論づけました。これは、確認手段の1つに過ぎません。

未だにそれを覆すまともな証拠な何一つ提示されませんね。

仮に実在したとしても、記事の内容と実際の事件の内容がかけ離れていれば『フカシ記事である』という指摘はそのままです。

もし、新聞にも載らないような犯罪者の事件を、冤罪のように捏造して「フカシ記事」に仕立て上げていれば、それを誇らしげに掲げて私に謝れというのは、誰が見たっておかしいですね?

瀬戸弘幸さんは、そのような姑息な記事は書いていないのでしょうから、手元にある資料をきちんと公開して白黒つけた方がよろしいかと思います。

また、私が農業事情に明るくないから、適当なお返事で十分とお考えのようで、非常に残念です。せっかくですから、浅学な私に色々教えて戴けると幸いに存じます。



GHQが農地解放する以前は、地主、自作農、小作農と、大きく3つのスタイルがありました。しかし、作付面積が小さな農家は収益率が低いので、土地を借りてまで農業を続ける人は東北以外ではどんどん淘汰されて行きました。

ところが、特に東北地方では、他の産業の発展が捗捗しくなかったこともあり、むしろ農業人口が増加する地域なども。これにより、労働単価が下がり、地主は安定的に大規模農業が営めたのでした。

安定収益を確保していた地主と対照的に、低賃金で困窮した農民たちは、女を身売りに出さなければならなくなったりもしたようで、東北地方各地には遊郭が点在しています。

リンゴ栽培発祥の地である瀬上町も、戦後しばらくは瀬上町遊郭が存在しました。



ここなどは、「石倉作り」の立派な建物だったようですね。(※私が知る限り、瀬戸家が遊郭の経営をしていたという記録は見ていないので誤解はしないで下さい。)

私なら、堅牢な「石倉」を建てる経済的なゆとりがあれば、少しでも早く自分の土地を持って「自作農」になるという選択肢を選びますけど・・・ どうしても倉が必要だとしても、当座をしのぐ、普通のを建てます。

農家なら、例え小作でも「石倉」をお持ちですかそうですか。瀬戸弘幸さんの珍奇な説明を鵜呑みにすると、東北の農家って頭がおかしな方の集まりに見えてしまいます。

戦後、農地解放で自作農になってから建てたとご説明になるのかと思っていたら、どこの農家でもと仰られたのでびっくりしてしまいました。

今更撤回できませんよ。

東北の困窮には様々な要因がありますが、瀬戸弘幸さんが先日触れた戊辰戦争にも、その要因の一端が垣間見えます。薩長主体の官軍将校の誰かが、『白河以北一山百文』と、東北地方を侮蔑する言葉を吐きつけています。(※この白河は、私が本シリーズで取り上げている「白河高原」でもあります。)

その言葉を裏付けるように、戊辰戦争で明治政府に逆らった土地として、ことごとく冷遇されたのが東北地方です。

瀬戸弘幸さんは、新しい維新を東北からと仰っているようですが、「二・二六事件」や「五・一五事件」の遠因は、こうした不当とも言える過度の貧困に追い込まれた農民の不満を背景に受けていたと言われています。ご存知ないというか、そうした実感をお持ちでないようで・・・

そうした辺りからも、瀬戸弘幸さんの家柄からは、東北の小作農民が抱えていた塗炭の苦しみの記憶が全く感じ取れないのです。

明治30年頃からは、白虎隊の忠孝の美徳などが高く評価されるようになったものの、それまでの扱いの酷さは筆舌に尽くしがたいものがありました。

戊辰戦争の会津藩側の戦没者は、埋葬どころか移動すら認められず、半年もの間城下に野ざらしで放置させられ、嘆願の末ようやく埋葬が許可されるという有様でした。同じ日本人がこういう蛮行をしたんですね。

幕府転覆を目論むテロリスト扱いだった薩長、取り締まる側だった会津の正邪が、時代の流れで逆転しました。その途端に、人を人とも思わないような扱い。

しかも、戊辰戦争が終わった後、会津藩のお侍だけでなく白河以北に住む全ての人々を不遇の扱いとする。ひどい話ですね。

(※追記:補足になりますが、生き残った会津藩の方々も北海道の開拓地送りなど、事実上の国替えになった方々が多かったようで、会津に残って不遇な境地においやられていたのは、むしろ農民など戊辰戦争に直接関わりのない方々でした。)

こうして振り返ってみると、明治政府のやった事も許しがたいものがあります。そして、蓄積した不満が「二・二六事件」や「五・一五事件」の青年将校を動かす原動力になりました。

地方の鬱屈した不満を利用して、政治をひっくり返す試みは、既に過去にも何度も起こっているんですよ。

瀬戸弘幸さんは、もう少し歴史のお勉強もした方がよろしいのではないでしょうか。大事な視点がかなり抜け落ちていらっしゃるようにお見受けします。

【追記2】
今回は、親愛なる『日本よ何処へ』コメント欄住人の皆さんに対してもお返事をしておきます。当該エントリーのコメント欄に感想を書き加えてみました。

コチラからどうぞ。

【追記3】


瀬戸弘幸さん、鏡をお持ちでないのですか? 都合の悪い話題から、みっともなく逃げ回っておられるのは、他でもない瀬戸弘幸さんではないですか。


手元に、冤罪であることを証明する資料をお持ちですよね。そう公言なさったはずです。

それを出せない合理的な理由を全く説明もせず、公印すら判別できない1枚紙だけを公開して胸を張っているのは、非常にみっともないとお思いになりませんか?

また、私が質問した事に対して、これまでろくに回答なさっていません。何度質問しなおしても、その度に無視してお逃げになる。

瀬戸弘幸さんが今回持ち出した理屈によれば、瀬戸弘幸さんは創価学会員だという事で間違いないですね?

毎度の事ながら、言論家としては幼稚すぎる物言いが多すぎるように思います。

差し出がましいようですが、鏡の前できちんと襟を正して、身なりを整えてからディベートに臨まれた方がよろしいのではないか。

【追記4】


全斗煥の犬ブログである『日本よ何処へ』に、こんな記述がありました。

自分の事は棚に上げてしまう態度も実に見事なものがあります。まるで、ネトウヨが嫌う特定アジア諸国の人々のメンタリティーをそのまま投影しているかのようです。

『主張の多少の間違いがあっても、それ以外の部分は認めろ』と言っているようですが、この人物が当ブログに対しては、『1~2箇所の間違いを指摘すれば、デタラメばかり書いていることは明白である。』と主張しています。

見事なダブルスタンダードぶりです。開いた口が塞がらないとは、こういう事を言うのでしょう。

自分の都合がよさそうな部分のみを切り取って騒ぎ立てて、それで勝ったかのように騒ぎ立てるのは、創価学会の得意技と吹聴なさってますが、明らかにそれを言っているこの人物が、当該エントリーで鮮やかにそれを実演なさっているという。

ギャラリーの皆さんも、それに気づいてしまっている。こんな恥ずかしい記事を書いて、普通の神経していたらブログごと畳みたくなりますけど、この方は、半島や大陸的なメンタリティーをお持ちなので、きっとまた逆恨みされるんでしょうね。

困ったもので。



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2 コメント:

shinok30 さんのコメント...

>GHQが農地解放する以前は、地主、自作農、小作農と、大きく3つのスタイル
>がありました。しかし、作付面積が小さな農家は収益率が低いので、土地を借り
>てまで農業を続ける人は東北以外ではどんどん淘汰されて行きました。

>ところが、特に東北地方では、他の産業の発展が捗捗しくなかったこともあり、
>むしろ農業人口が増加する地域なども。これにより、労働単価が下がり、地主は
>安定的に大規模農業が営めたのでした。

>安定収益を確保していた地主と対照的に、低賃金で困窮した農民たちは、女を
>身売りに出さなければならなくなったりもしたようで、東北地方各地には遊郭が
>点在しています。

>リンゴ栽培発祥の地である瀬上町も、戦後しばらくは瀬上町遊郭が存在しました。
 
大正時代の中農標準化や
大恐慌下での都市と農村や農村地域間の経済格差はなぜ生まれたなどについては
>近現代日本の農村―農政の原点をさぐる (歴史文化ライブラリー)
>庄司 俊作 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/464205555X
が参考になりますね
 
恐慌の時代でもみんながみんな悲惨な生活をしていたわけでもないんですよ
 
>「のんきな時代」
>作家の安岡章太郎は一九二〇年生まれであり、昭和恐慌の時代は小学校の高学年
>であった。安岡著『僕の昭和史』(一九八六年)には興味ある昭和恐慌の思い出
>が綴られている。 軍縮条約や軍人・官吏の減俸の影響を受け「グンシュク」や
>「ゲンポー」と言った言葉をよく聞かされ、「恐ろしく重苦しい気分がした」と
>書いた後、こうつづける。
> しかし、それ以外に不況が僕達の家庭に直接影響をおやぼしたるものは
> ほとんどなさそうだった。おそらく失業者以外、一般の俸給生活者にとって、
> この時代は比較的のんきなものだったのではなかろうか。物価は安定して、
> むしろ下がりぎみだったし、大正リベラリズムの匂いもまだ色濃く残って
> いたはずだからである。
>官吏の減俸は浜口内閣の緊縮財政の一環でセンセーショナルな話題となったが、
>一九三一年に実施された。月収一〇〇円以上の中・高級官吏が対象で、減俸率は
>平均一割である。第一次大戦後官吏の俸給は抑制されてきたとはいえ、農民の収入
>減に比べなんとなまやさしいことか。安岡の父親は当時陸軍大尉であり、景気の
>変動に左右されない側の人間であった。安岡は、小学校にあがる前からチョコレート
>やハム・ソーセージといったハイカラな食べ物を口にしていた。減俸率にたいして
>物価はもっと大きく下落したから、確かにその思い出は恐慌の実相をとらえている。
> このころ、安岡の一家に代表される小市民的な都市中産階級(安岡家はその中流
>上層か)が一定の厚みで形成されていた。 恐慌下でもすべての人が悲惨な生活を
>していたわけではない。恐慌は物価が下がるから、失業の心配がなく一定の収入が
>ある者や一部の豊かな者は、生活がしやすくなったり、より豊かな生活をおくれる
>ようになったりする。
(近現代日本の農村―農政の原点をさぐる (歴史文化ライブラリー) 庄司 俊作)
http://www.amazon.co.jp/dp/464205555X
 
 
上記の文章には,恐慌下で都市と農村,階層間の貧富の差が拡大したことや
農村間でも地域差があったこと
(例えば,東北,長野,山梨,群馬などの農村は悲惨だったが,
 近畿の農村,特に都市周辺の農村では恐慌の影響は軽微だった)等の記述が続きます
 
東北地方でも「安定収益を確保していた」地主の中には
豊かな生活をしていた人がいたということでしょう
 
「借金まみれの農民は娘を身売りした」と言っても
その娘を買っていた金持ちはいたわけですからね

2009年10月22日 14:47  

ワールドワイドウェブ さんのコメント...

瀬戸孝一さんの自伝「ごんけやん」には、福島県りんご栽培発祥の地である瀬上町の戦前からの農業事情が割と事細かに書かれています。

りんごの栽培法が確立される前は、さくらんぼが果樹栽培の主力だったお話だとか色々と。

瀬戸弘幸さんは、私が何も知らない前提で話を強引に進めて押し切ろうとなさっていますが、その認識自体がかなり甘いと言わざるを得ません。

遊郭の発展史については、「色街をゆく」を出版なさったばかりの橋本玉泉さんに、色々お話を伺う機会が持てたら嬉しいのですが・・・

恐らくですが、地元の遊郭に家族は売れませんから、瀬上町遊郭に売られたのは、東北の別の地方の女性たちでしょう。

逆に、瀬上町や近隣の女性たちが売られる時は、知り合いに会う心配がない、離れた色街、遊郭が選ばれたものと思います。

いずれにしても悲惨な話なんですけどね。

2009年10月22日 23:46  

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