拝啓 瀬戸弘幸 殿

平成21年10月10日、徐才喜冤罪事件の取材記録が瀬戸家の石倉から出てきたとの喜ばしい報告を下さってから、早いもので8ヶ月が経過しました。

地裁の判決文全文(特に公印は必須)と、新聞が大きく報じたという、徐才喜さんの逮捕の記事の公表はまだでしょうか?

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2009年9月27日日曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その10)

前回に引き続き、書籍を中心に当時の福島県政全般の汚職について少し触れてみたいと思います。

『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』という本は、朝日新聞社から出ており、当時の紙面で長期に渡って連載されていたものをまとめなおしたものです。

福島県の天栄村で起こった水道管工事に村長選挙が絡んだ贈収賄事件が発端となり、福島県内のあちらこちらで、芋づる式に汚職が明るみになって行き、思いもかけないところに飛び火しながら逮捕者を出して行きます。

遂には福島県知事選挙で票のとりまとめに使うための裏金1千万円が猛牛(ファンソ)こと町井久之氏の東亜相互企業から引っ張り出されて、大票田の農協に流されていることが明らかになり・・・ といった内容です。

ドキュメンタリーの流れとしては、末端で起こった小さな事件から順々に大きな贈収賄事件の立件を追う形になって行きます。出来れば図書館などで探して皆さんにも読んでいただきたい良書ですが、簡潔に紹介するために、一番大きな部分のみ紹介します。

なお、この本だけでは、町井久之氏サイドの事情について若干情報量が不足気味なので、まずは『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男 「東声会」町井久之の戦後史』という本で少し補っておきます。

昭和36~37年頃、河野一郎氏が農林大臣の時に、福島県西白河郡西郷(にしごう)村の白河高原の国有地を一部払い下げに出しました。農林省から坪百円程度でした。児玉誉士夫氏と河野一郎氏は懇意で、二人で土地を見に行っています。

町井久之氏は下見から帰った児玉誉士夫氏の薦めでこの土地を購入。何人かの方がひとり何万坪かを購入したようです。

この一帯は旧陸軍の軍馬補充部や演習場として、終戦まで使われていました。戦後は、旧満州から引き揚げてきた開拓団の一部七十七戸が再入植して、酪農を主体とする開拓地とされていました。

しかし、那須火山帯の裾野に位置する痩せた土地で、しかも福島県下で最も寒冷な土地のため、耕作に適さず・・・
開拓農民たちは借財を膨らますばかりでした。

昭和39年の暮れに、この開拓農民たちが困窮して町井久之氏の東亜相互企業に泣きつきます。町井社長は開拓農民たちの土地を担保に快くお金を貸します。返済も農民たちが困らないよう無理のないよう配慮する旨指示をしています。

この一帯は掘れば温泉が出ることも東北新幹線のルートになることも分かっていたようです。また、開拓農民たちの酪農は、それ自体が健全な黒字体質になっていませんからいくら温情をかけてお金を貸しても、いずれ返せなくなることは薄々分かっていただろうと思います。

案の定、開拓農民たちは借りていたお金が返せなくなり、土地の買取を町井久之氏に持ちかけるようになります。

こうして、東亜相互企業は、白河高原の二百五十万坪もの広大な土地を買収して、近代農場を中心に、乗馬、ゴルフ場、テニス、射撃などのスポーツ施設と、ホテルや温泉を組み合わせた壮大なリゾート構想を打ち立てました。

この土地買収に必要な資金が160臆円、更に施設の総工費が150臆円、しめて310臆円が必要でした。

ここで町井久之氏の出自が問題になります。在日韓国人である町井氏に日本の銀行は融資したがらず、かといって流石にこんな大金を融資抜きでは用意できません。会社の資本金は5臆円そこそこです・・・

町井久之氏は、韓国のコネクションに頼ります。大統領警護室長、「ピストル・パク」こと朴鐘圭(パクチョンギュ)氏と懇意だったので、そこから朴正煕(パクチョンヒ)大統領に話を通しました。

前述のとおり、戦前には西郷村には軍馬補充部白河支部があり、演習場がありました。そして、朴正煕大統領は、旧日本陸軍の士官学校を卒業し、白河での演習に参加したことがありました。

朴大統領にとってはなじみの深い土地だったことが幸いし、後押ししてもらえることになりました。(後に、朴大統領が隠居後に暮らす土地として町井久之氏に大規模買収と開発をさせたのではないかという批判がされたようです。これが事実なら、まさに「売国」という事になります。)

昭和43年、朴大統領は、韓国外換銀行が東亜相互企業に融資することを許可。この融資によって白河高原の土地は順調に買収されて行きました。

『対馬の土地がコリアンマネーで買われている』と大騒ぎしていた方々、これを見てどう思いますか?

町井久之氏はこういう経緯で福島県の西郷村一帯を大規模買収して巨大資本を突っ込んで開発を進めて行きました。

こういう前提がまずあって、そこに、『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』で克明に描写されている賄賂漬けの選挙、県政、公共事業などの問題につながって行きます。

昭和47年、白河高原の開発に足枷をはめる事態が起こります。まず、県は開発規制を目的に6月に「生活環境部」を設置。更に10月には福島県自然環境保全条例が制定しました。

田中角栄の列島改造論は空前の土地ブームを引き起こし、地価の高騰や乱開発に対して野党や世論から批判が相次いでいました。そうした声に応えるために作られたものです。

この条例により5ヘクタール以上の開発は60日以上前に県への届出が義務づけられ、知事が開発行為に対して助言、勧告、の権限を持つことになりました。

昭和48年、更にこの権限が強化されます。県当局(つまり、「生活環境部」)との「事前協議」が制度化されました。これを経ないと開発の届出が出来ないため、事実上はかなりの強制力を持っていました。

こうして、「開発」したい業者を生かすも殺すも「生活環境部」との「事前協議」のさじ加減ひとつという状態が作り出されました。自然を守るための条例が、いともたやすく利権を生み出せる構造を生み出しました。

昭和48年の暮れ、石油ショックが起こります。東亜相互企業もこの煽りで資金繰りが少し苦しくなり、ゴルフ場開発計画を一部変更して分譲地造成に変更しました。

この申請を少しでも早く済ませて着工したかったようです。ところが生かすも殺すも「生活環境部」次第・・・ とにかく円滑に申請を通して戴きたいという陳情を東亜相互企業は慌しくするようになります。

これで、町井久之氏側が福島県知事に付け届けをしたくなった背景事情は、大体理解できると思います。

次回は、県知事やその支援者側の事情などに触れます。それに加えて、もう1冊紹介したい本があるので、そのお話も少しだけ入れるかも知れません。

その辺りが大体片付いたら、福島県立図書館で拾ってきた情報についてお話します。

当時の福島県で何が起こっていたのか、大まかな知識を持っておかないと、目の前に宝の山があっても気づかずに通り過ぎてしまうことになります。少し退屈に感じる人も居るでしょうが、気長におつきあい下さい。



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